選評
芸術・文学2021年受賞
『国民国家と不気味なもの ―― 日露戦後文学の〈うち〉なる他者像』
(新曜社)
1977年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。博士(学術)。
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻助教を経て、現在、津田塾大学、法政大学、埼玉県立大学、早稲田大学などで非常勤講師を務める。
著書 『世界文学としての〈震災後文学〉』(共著、明石書店)など。
看板に偽りあり?このインパクトに充ちた日本近代文学思想史において、「不気味なもの」なるフロイト心理学の術語が書物の枠組みを成しているかに見える。懐かしく根源的なのに、その時代の規範や政治的・社会的抑圧によって隠されてしまったものが、何かのきっかけで無意識の底から現れる。幽霊とか幻とか、曖昧なかたちをとって。それがひとつの定義だろう。ところが、そんなフロイト流から、本書が俎上に載せる「不気味なもの」はどんどん逸脱する。幽霊や幻よりも生々しい。「超不気味なもの」とでも呼びたくなる。たとえば妖怪変化や革命家。規範や抑圧にハッキリと反逆する。あるいは死者たちの無念や怨念。生の欲求を国家に歪められて、素直に発露させられぬうちに死にゆく。そのとき噴出する、ハッキリした思い残しの声が、国家の心胆を寒からしめる。
けっきょく本書は、従順な国民の造出に励む明治国家体制と、そこに嵌らぬ「不気味なもの」か「超不気味なもの」との、闘争史として読める。しかも、その闘争史を観念的範疇にとどめず、鮮烈な文学史として屹立させるべく、著者が全編にわたってこだわるのは、血と肉と動物のイメージだ。明治国家体制の理想とする国民像が、いくさの手柄話に血を湧かせ肉を躍らせる愛国的少年少女に象徴されるとすれば、著者はそこに、国家によって血まみれにさせられ、肉を引き裂かれて、靖国神社に送り込まれるか、非国民として抹消されるかする、日本人の姿を対置する。本書は“大量戦死の日露戦争”と“大量死刑の大逆事件”という二極を経巡(へめぐ)り続けるのだが、それは“靖国への道”か“非国民への道”かという極限的二択とつながっているのであろう。その二択から逃れようとすれば、人は妖怪や動物にでも変身して異界へ脱出するか、生命としての素直な動物的欲求に目覚め、それを貫徹すべくこの国に革命を起こすか、これまた二択より選ぶほかない。でなければ、従順に家畜か兵隊蟻のように生きることになろう。
かくなる観点から本書は、意表を突いた文学や事件の組み合わせによる「超不気味なもの」の連合戦線を展開する。泉鏡花の「高野聖」を近代国家にまつろわぬ者が妖怪や動物と化す物語として、櫻井忠温の『肉弾』を血肉の四散する残虐文学として、夏目漱石の「趣味の遺伝」を兵士が虫に見立てられる書き方に注目して、乃木希典の明治天皇への殉死を『葉隠』の言う主君への同性愛的な「忍ぶ恋」に通じる“反国民道徳的事件”として、大胆に論じる。思わぬ切り口に目から鱗が落ちる。それらの言わば「超不気味なもの」としての性格を熱と力で解き明かす。
しかし、鏡花から乃木まで、さらに山県有朋や平出修や平沼騏一郎や幸徳秋水についての各論の細部に閃きや深まりがあればあるほど、「超不気味なもの」の連合戦線を束ねる、国家に抗する民衆という古典的かつ明快な構図では、収まりがつかなくもなるだろう。全体の単純さと部分の豊饒さとの齟齬が欲求不満の種となり、本書自体が何やら不気味なものと化してくる。もちろん、ここで言う不気味なものとは、研究をさらに飛躍させうる余剰に他ならない。著者の今後に期待する所以である。
片山 杜秀(慶應義塾大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)