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サントリー学芸賞

選評

政治・経済2021年受賞

中西 嘉宏(なかにし よしひろ)

『ロヒンギャ危機 ―― 「民族浄化」の真相』

(中央公論新社)

1977年生まれ。
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。
日本貿易振興機構・アジア経済研究所研究員、ジョンズ・ホプキンス大学客員研究員、ヤンゴン大学客員教授などを経て、現在、京都大学東南アジア地域研究研究所准教授。
著書 『軍政ビルマの権力構造』(京都大学学術出版会)など。

『ロヒンギャ危機 ―― 「民族浄化」の真相』

 東南アジア圏でバングラデシュと国境を接し、「秘境」とも呼ばれたミャンマー。2017年、その西の辺境にあるラカイン州で、国軍によるイスラーム系少数民族ロヒンギャへの掃討作戦が行われた。多数のロヒンギャの人々が殺害され、大量の難民がバングラデシュへ押し寄せた。比較政治の対象に馴染みにくい独特の発展を遂げたミャンマーの政治情勢は、アウンサンスーチーというリーダー、長らく独裁政権の中核にあった国軍、多様な少数民族からなる社会構造が複雑な化学反応を起こしている。深く入れば入るほど、正確な状況把握は難しい。
 このような地域をフィールドとした中西嘉宏氏は、現地調査を繰り返し、そこでしか入手できない文献を収集し、軍人・政治家へのインタビュー、ジャーナリストとの交流、そして難民キャンプなどで人々の談話を聞き取ってきた。それらを十全に踏まえた本書では、ロヒンギャ問題という一般の日本人読者になじみの薄い対象を描くに際し、随所で明快な問いを立て、これに答えるという周到な構成をとる。
 まず初めに「ロヒンギャとは誰で、その人口はいったいどれほどなのか」という問いがそもそも答えにくいものであることに、問題の奥深さを浮かび上がらせる。続いて、「長い軍事政権で、ロヒンギャを取り巻く環境はどう変わっていったのだろうか」という問いには、簡明に「国家による排除と管理の強化だった」と喝破する。この長い歴史があってこそ、民政移管の後に、かえって宗教対立が激化する。そこから本書の叙述は、一気呵成に、ロヒンギャ武装勢力の襲撃から軍の掃討作戦へと展開する。冷静ながらも人権への熱いコミットメントを隠さない中西氏は、掃討作戦と虐殺の真相を正確にとらえることがいかに難しいかを読者に強く訴える。「いったい何が起きたのか」という問いをなげかけた氏は、ドキュメンタリー映像を見ているかのような、現地の空気が吹き込んでくる筆致で、これに応ずる。そのため、読者は真相にたどりつけないとしても、実情を半ば肌感覚でつかみとることができるのである。
 何よりも本書冒頭に掲げられた問いが、この問題の政治的核心である――「なぜスーチーは国軍によるジェノサイドを否定するのだろうか」。中西氏は、国際司法裁判所でのスーチーの弁論の政治的含意をくみ取り、その穏健かつしたたかなリベラリズムによって、国軍との正面衝突を回避しつつ、国際社会に問題のありかを訴えようとする意図を描き出す。このように優れた「国内政治勢力のバランス感覚」があったからこそ、2020年11月の総選挙でスーチー率いるNLDは大勝した。それは、現在われわれが直面する軍事クーデターを引き起こした。ロヒンギャ危機を国際的舞台でバランスよく対処したスーチーへの圧倒的な国民の支持と、その体制を承認できない国軍という構図こそ、本書を手に取りつつ、今後のミャンマー政治を展望する軸である。明快な問題設定、ドキュメンタリー風の視覚的要素を取り入れた筆致、あふれる人権感覚と政治の現場をどこまでも見通そうとするリアリズムは、一少数民族問題から、政治一般へと広がる豊かな洞察を生み出した。長らく読みつがれる地域研究の作品となるのでは、という期待とともに中西氏の次著を待ち望みたい。 

牧原 出(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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