選評
思想・歴史2020年受賞
『五・一五事件 ― 海軍青年将校たちの「昭和維新」』
(中央公論新社)
1976年生まれ。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。
立命館大学文学部講師などを経て、現在、帝京大学文学部史学科教授。
著書 『憲政常道と政党政治』(思文閣出版)、『評伝 森恪』(ウェッジ)など。
昭和史に関心をもつ人で五・一五事件を知らない人はいない。犬養毅首相が首相官邸で殺害され、軍国主義へと日本が突き進む転機となった大テロ事件であることは常識に属する。さらにまた、この事件を引き起こした海軍将校たちへの刑が軽かったこともよく知られており、これが後の軍部の横暴につながったという説明もよく聞くところである。
しかし、この事件の全貌についてまとまった著作はそれほど多くない。松本清張の『昭和史発掘』に収められている『週刊文春』連載記事(1966年)や保阪正康『五・一五事件』(1974年)くらいであろうか。本書はその意味で画期的である。なぜなら、本書によってようやくこの事件がまとまった形で歴史分析の対象となったと評価されるからである。
著者自身がいうように、この事件には謎が多い。第1に、海軍将校たちはなぜこの事件をおこし犬養首相を殺害したのか。第2になぜこの事件後政党内閣が続かなかったのか。そして第3になぜ国民の多くが青年将校に同情し減刑嘆願運動がおき、そして刑が寛大なものとなったのか。本書は、この3つの疑問に答えるために、事件の背景を確認し、実際に何が起きたのかを徹底的に解明しようと試みる。
著者は現存する膨大な史料の山に分け入り、5月15日に起きた出来事を詳細に跡づける。その結果が、第1章における小説であるかのようなナラティブである。記述の背後にはすべて典拠があるというが、いうまでもなく当事者たちの記憶による史料も多いから本当かどうかはわからない部分が残るし、このことは著者も認めている。しかしながら、新たな史料が発掘されない限りは、当面この第1章がこの事件を臨場感をもって語る唯一の記述ということになるのであろう。
5月15日の出来事の叙述に加えて、本書の功績は、著者自らが掲げた3つの疑問に正面から回答を与えようとしたところにある。第1に関して、著者は、藤井斉をはじめとする海軍将校たちのそれまでの経歴や北一輝、大川周明、西田税、井上日召らとの関係を描くことによって、彼らのテロが犬養首相個人への怨恨などではなく「国家改造」の起爆剤となることであったことを主張する。第2に関して、著者は天皇が元老西園寺に伝えた「希望」に著者なりの解釈をすることによって、天皇の「政党政治」への不信が西園寺をして政友会総裁の鈴木喜三郎を次期首相に推戴することを断念させたのだと主張する。そして、第3の疑問については、減刑された最大の理由は減刑嘆願運動だったのではなく海軍内部の対立回避の動きであったと主張している。
こうして著者は五・一五事件に関する事実確認と五・一五事件に関する1つの有力な説明をまとまった形で提示したのである。著者の3つの疑問に対する説明に対して異論をとなえる研究者も存在するであろう。著者がいうように、ほぼすべての関係者が鬼籍にはいり五・一五事件がようやく「歴史」になったとすれば、本書は、歴史解釈の今後の論争を開始させるかもしれないことも含めて、五・一五事件の歴史の嚆矢となるのであろう。
田中 明彦(政策研究大学院大学学長)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)