選評
思想・歴史2020年受賞
『囚人と狂気 ― 一九世紀フランスの監獄・文学・社会』
(法政大学出版局)
1979年生まれ。
パリ第1大学史学科博士課程修了。パリ第1大学史学博士。上智大学大学院文学研究科フランス文学専攻博士後期課程単位取得退学。
日本学術振興会特別研究員(PD)、立命館大学言語教育センター嘱託講師などを経て、現在、富山大学人文学部准教授。
論文 「エクトール・マロとエミール・ゾラ ─ 精神病者に関する法(1838)と文学」(富山大学人文学部紀要68号、2018年)など。
受賞作の「あとがき」によれば、著者は八歳のとき、商業施設の抽選で特賞のヨーロッパ旅行を引き当てた。代わりに親が行くわけにも行かず、母親が自腹で同行することになったという。各地で楽しい思いをしたが、ブランド店の日本人店員が冷たく、大人たちも疲れて見えたのがフランスであった。にもかかわらず、フランスに最も心ひかれたと著者は書く。なぜなら少女を「まるで自立した一個人であるかのように、敬意を持って、対等に扱ってくれたから」だ、と。著者とフランスの関係を暗示する印象的な逸話である。
本書は19世紀フランスにおける監獄をめぐる研究である。当然、フーコーの『監獄の誕生』を想起するわけだが、彼の時代に比べ、歴史的資料ははるかに充実している。受賞者は特に、監獄改革をめぐる政治的・社会的言説を渉猟すると同時に、文学作品の分析によって、囚人や監獄の様子が同時代人の眼にいかに表象されたのかを探る。
思えば19世紀初頭、監獄は多くの改革的な知識人にとって特権的なトポスであった。監獄は人を罰するだけでなく、矯正する場である。教育の欠如こそが犯罪の原因である以上、博愛精神をもって理想的な監獄を実現することで、囚人をより良い存在へと改良できる。ベンサムのパノプティコンの構想が有名だが、昼夜を問わず独房制のペンシルヴェニアシステムなどが、このような時代精神の下で活発に議論された。また、監獄の先進的実験国としてアメリカへの視察も行われた。
意外なことに、ここで登場するのが、『アメリカのデモクラシー』の著者トックヴィル(トクヴィル)である。彼はアメリカのデモクラシーだけでなく、その監獄を現実に見た人間として、フランスの監獄改革の議論においても指導的な地位を占めた。しかしながら、本書で描かれるトックヴィルは、決して自由と民主主義の理論家ではない。むしろ、危険な犯罪者から社会を防衛するための施設として、監獄改革を推進する秩序派のイデオローグとしての一面が浮かび上がる。
転機になったのが、1831年にフランスで広がったコレラだというのが興味深い。この時期以降、博愛精神は吹き飛び、むしろ先天的に罪を犯す傾向を持つ人々が、「道徳的な病」に感染するという見方が力を増していった。それをさらに、統計学や骨相学、奇形学といった、「科学的」な言説が正当化した。犯罪は伝染病として捉えられ、囚人たちを隔離して、社会を守らなければならないという思考が支配的になったのである。完全な独房制が囚人の精神状況に悪影響を与えるという報告があったのに、それは無視された。
後半の文学篇では、ユゴーやバルザック、あるいは『パリの秘密』の著者シューが取り上げられる。本書の前半に見られた監獄をめぐる眼差しの変化が、文学作品においても同様に浮かび上がるのが、本書の読みどころとなる。受賞者が切り開いたのは、政治的・社会的言説と文学作品を同時に射程に入れ、時代とその精神の変化を明らかにする手法である。本書でも触れられているルイ・シュヴァリエの『労働階級と危険な階級』にも比すべき、新たな可能性を受賞者がさらに発展させていくことに期待したい。
宇野 重規(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)