選評
芸術・文学2020年受賞
『「東洋」を踊る崔承喜』
(勉誠出版)
1976年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程満期退学。博士(学術)。
宇都宮大学非常勤講師、国士舘大学非常勤講師などを経て、現在、小樽商科大学言語センター准教授。
著書 『東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流』(共著、国立台湾大学出版中心)など。
崔承喜(1911-69)といっても、いまでは知る人は少なくなったかもしれない。しかし、戦前の日本では帝国日本を代表する朝鮮出身の舞踊家として一世を風靡し、日本語読みされたサイショウキという名前は全国にとどろき渡っただけでなく、世界での公演旅行を通じて国際的にも高く評価された。本書はその崔承喜が日本で活躍した1926年から45年の期間に焦点を当て、膨大な資料を掘り起こしてまとめた労作である。
崔承喜に関する先行研究としては、日本では高嶋雄三郎による先駆的な評伝があり、1990年代以降韓国でも再評価が進んで続々と研究が出てはいるものの、彼女が舞踊家として最も充実した時期を過ごした日本における活動を、本書のように当時の日本文化の文脈の中に置いて本格的に分析したものはほとんどなかった。著者、李賢晙氏のとった方法は極めて明確なもので、自伝・小説・同時代の日本の文化人の批評といったテクストから、崔承喜が登場する映画、写真、絵画まで、当時の日本の文化・芸術の世界にほとんど遍在していた崔承喜のイメージを広範囲にわたって分野横断的に調査し、一つ一つ丁寧に分析していくのである。今日出海は彼女をモデルにした伝記的映画『半島の舞姫』を監督し、川端康成は彼女を「日本一」の舞踊家とほめたたえ、梅原龍三郎、鏑木清方、小林古径などの画家がこぞって踊る彼女の姿を描き、多くの有名無名の写真家たちが撮った彼女の写真がグラフ雑誌から商業広告にまであふれたのだった。
李賢晙氏は崔承喜の「舞踊写真」に「消費」「芸術」「政治」「民族」という四つの要素を読みとるのだが、これは崔承喜という舞踊家の置かれた複雑このうえない状況を端的に示すものである。舞踊芸術を一途に追求しながらも、商業主義の波にのってコマーシャルのアイドルとなり、朝鮮の伝統舞踊を復活させようとしながらもその一方でモダンガールとして「新しい女性」のイメージ作りに加担し、左翼文学に親しんだ知識人でありながら戦時中の帝国日本の政治的プロパガンダに協力する――こういった彼女の生き方を、著者は単に一方的に表象されるだけでなく、自らも戦略的な自己表象を通じて当時の日本文化の中に確固たる居場所を勝ち得たプロセスとして描き出す。崔承喜は帝国と植民地、芸術と商業、民族的伝統とモダニズム的革新のすべてが交差する複雑な場に生きた。本書はその複雑さを丁寧に解きほぐしている。
最後に強調しておきたいのは、このような探求を支えているのが、あくまでも実証的で地道な調査であるということだ。文献調査の成果は、巻頭に掲載されたカラー口絵64点(そのほかに本文中に数えきれないほどのモノクロ写真が収められている)に加えて、巻末に収録された全部でほとんど100ページにものぼる文献目録、各種資料、そして現時点で判明していることすべてを整理して記述した詳細な年譜がはっきり示している通り、圧倒的である。本書執筆が著者にとって、過去の歴史の中に埋もれかけていた崔承喜のイメージを生き生きと蘇らせていく、発見に次ぐ発見の喜びに支えられたものであったことがうかがえる。
沼野 充義(名古屋外国語大学副学長)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)