選評
政治・経済2020年受賞
『人類と病—国際政治から見る感染症と健康格差』
(中央公論新社)
1981年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(博士課程)単位取得退学。博士(学術)。
日本学術振興会特別研究員(DC2)、関西外国語大学外国語学部専任講師などを経て、現在、東京都立大学法学部教授。
著書 『国際政治のなかの国際保健事業』(安田佳代、ミネルヴァ書房)、『新しい地政学』(共著、東洋経済新報社)など。
新型コロナウイルス感染症の世界的流行によって、現在、人類は感染症の怖さをまざまざと感じている。緊急事態宣言のさなか、おそるおそる開いてみたウェブサイトでは、天然痘、ペスト、ジフテリアに感染すると人間の体はどうなるかという写真を掲載していた。当然のことながら、見たこともない激烈な身体の異変である。現代日本の私たちは、こうした病気といかに縁遠くなったことだろうか。
だが私たちは、これらの病名を知識として知っている。感染の現実と病気への知識との間を結びつけるものが、医学と公衆衛生の発展であり、さらにそれらを記録する書き手である。
本書は、現代日本の外交史家が、国際政治史の視座でこの問題に取り組んだ最良の入門書である。そこでは、感染症対策という課題と健康増進という課題とが、重なり合いつつも独自の二つの争点を持つ楕円構造として、描かれる。いずれも人類の歴史に深く根ざした問題である。
交通機関の発達によって人と物の移動が加速し始めた19世紀後半から、これら二つの争点が国際的な取り組みを必要とする課題であると徐々に認識され始める。国際衛生会議の開催が重ねられ、第一次世界大戦後、国際連盟のもとで常設の国際連盟保健機関が設立された。第二次世界大戦を経て、これが世界保健機関(WHO)となるのである。ここでは、公衆衛生の専門家による国境を越えた活動と、国家による外交努力とが不可欠である。WHOを中核とする国際的な枠組みは、かつての米ソ、現在の米中という大国の対立と協調に翻弄され、期待も大きい反面、期待外れともなれば大きな非難を浴びもする。
天然痘、ポリオ、エイズ、サーズといった感染の蔓延を防ぐ取り組みが徐々に進む一方で、肥満、喫煙といった生活習慣がもたらす健康被害も、「ポジティブヘルス」として国際的な取り組みの対象に加えられる。具体的な被害が見えやすい感染症とは異なり、生活習慣から生じる健康被害については、プログラムが先行し、国家間合意は遅れてやってくる。
感染症と健康増進という楕円構造からなる国際関係の歴史を読み終えた後に気づかされるのは、目下最大の課題である新型コロナウイルス感染症対策においても、感染症の抑え込みだけではなく、精神疾患や肥満、アルコール・糖分の過剰摂取など、もろもろの健康被害への対策とともに把える必要があることだ。感染症対策が他の施策を包み込みつつ、政治的判断を下支えしていく。WHOはそうした施策の総合的な枠組みを構築しつつ、必ずしも従順ではない各国に対し粘り強く協力を促していくのである。
私たちは、ともすれば、早くワクチンや治療薬を手にし元の世界へ戻りたいという衝動に駆られがちである。そのため科学を無視した楽観的な見通しが随所で語られている。特に日本ではこれまで感染症についての歴史と国家間の角逐とを見据えた議論がほとんどなされていない。極論やフェイクニュースが飛び交う中、著者には、感染症を抱えた世界を見据え、日本の社会に対して適切な知見を提示し続けることを切に希望したい。たえざるグローバル・パンデミックのリスクを抱えた世界を前に、感染症対策とポジティブヘルスの奥行きを触知しながら問題のありかを照らす論者が、今何にもまして必要なのである。
牧原 出(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)