選評
政治・経済2020年受賞
『日本のセーフティーネット格差—労働市場の変容と社会保険』
(慶應義塾大学出版会)
1976年生まれ。
慶應義塾大学大学院商学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(商学)。
全米経済研究所客員研究員、国立社会保障・人口問題研究所室長などを経て、現在、法政大学経済学部教授。
論文 “Are Elderly Workers More Likely to Die in Occupational Accidents? Evidence from Both Industry-aggregated Data and Administrative Individual-level Data in Japan”(Japan and The World Economy 48: 79-89所収、2018年)など。
日本は「国民皆保険」の国である。すべての人が公的医療保険や公的年金に加入していることになっている。正確に言うと、加入する義務を負っている。しかし、国民健康保険では2割の人が保険料を未納しているし、国民年金では3割近くの未納月数がある。原因は、非正規雇用の増加である。本来セーフティーネットが必要な雇用が不安定な人のセーフティーネットがなくなっている。一方で、雇用が安定している正規社員で勤続年数が長い人には手厚いセーフティーネットがある。これが本書のタイトルになっている「セーフティーネット格差」である。
非正規雇用者はなぜ国民皆保険から漏れ出てしまうのだろうか。日本の社会保険が正社員を対象としたものと自営業を対象としたものから成り立ってきたという歴史的背景が原因の一つである。自営業や非正規の人は、国民健康保険と国民年金に加入することが義務付けられている。著者たちの研究結果によれば、非正規の未納率が高いのは、所得が低いことが主要な理由である。国民年金や国民健康保険の保険料が逆進的だからである。国民年金や国民健康保険は定額となっている部分が大きいので、低所得の人ほど社会保険料負担率が高いという逆進性が生じている。
では、現在政府が進めているように非正規雇用者を正規社員の保険に加入させるようにすれば問題が解決するのだろうか。著者は、それだけでは不十分だと言う。なぜなら、社会保険では給付の要件に、過去の拠出を条件にすることが多いからだ。典型的なのは日本の失業保険である。失業者の中で失業給付をもらっていない人が増えているのは、社会保険料を支払っていた期間が足りない人が増えているためである。
酒井氏は、国立人口問題・社会保障研究所で長い間日本の社会保障について政策の近くで研究したのち大学に転じた気鋭の経済学者である。本書からは、経済学と実証分析の鋭さと同時に、制度と現実とのバランスを保つ姿勢が随所に感じられる。研究者としては、ある分析結果が得られると、それを実際の政策に活かしたいと思うところである。しかし、そのような政策提言が簡単に実現できないことを熟知している著者はとても慎重である。利害関係の存在、政策効果が限定的な可能性、政策のもつ副作用が存在するからである。政策効果の有無を政策担当者に提示してきた著者の経験をもとに、客観的根拠に基づく政策形成(EBPM)の有効性を議論した部分は興味深い。社会保障関係の政策は、利害調整で進むことが多い。効果がない政策でも利害関係者が一致して賛成すれば実施され、効果があっても利害対立が激しければ実施されない。逆に言えば、政策目標に対立がなく、政策効果が不確実か複数の選択肢がある場合にこそEBPMが効果的だ。また、EBPMが進まないのは、野党やマスコミ等の行政への対抗勢力が、エビデンスに関するリテラシーをもっていないからだという指摘も説得的である。
政策に近い現場で研究を続けた経験を背景に、日本のセーフティーネットのもつ問題点を明らかにした功績は非常に大きい。具体的な政策提案とその効果検証について酒井氏がこれから研究を進めてくれることを、本書は十分に期待させてくれる。
大竹 文雄(大阪大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)