選評
思想・歴史2019年受賞
『言葉の魂の哲学』
(講談社)
1979年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。
日本学術振興会特別研究員(PD)、新潟大学人文社会・教育科学系准教授、専修大学文学部准教授を経て、現在、東京大学大学院人文社会系研究科准教授。
著書 『不道徳的倫理学講義』(筑摩書房)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(KADOKAWA)
教室の黒板に書きつけた漢字が果たしてこれでよかったのかと感じたとたん、自信がなくなって、ただの線の集合にしか見えなくなって呆然とすることもある。著者によれば、だれもがときに感じるこうした現象は「ゲシュタルト崩壊」と呼ばれているという。このゲシュタルト崩壊は、夏目漱石が『門』で描き、中島敦は『文字禍』で、またホーフマンスタールは『チャンドス卿の手紙』で作品のテーマとした。著者はこの現象は人間にとって普遍的な問題であることを確認したあと、ウィトゲンシュタインが「言葉の魂」と呼ぶものの正体は何かという本題へと入っていく。まことに巧みな導入というほかない。
では、ウィトゲンシュタインはこうした「ゲシュタルト崩壊」、あるいはその逆の「ゲシュタルト構築」(意味がなかった形状や音響が有意味なものに変化すること)と呼ばれる現象をどのような角度から考えていたのか?
著者は、「スキーム」とか「アジェンダ」といったビジネス用語や記号論理学の人工言語などを例に取り、ウィトゲンシュタインの「言葉というものには魂があるのであって、単に意味があるだけではない」という発言をどう捉えるかをまず問題とする。ウィトゲンシュタインは、色の弁別に異常はあるが視力には問題がない「色盲(現在は色覚異常)」というものが存在するように、言葉の意味は理解できてもアスペクト(相貌)を掴むことが不可能なために言葉遊びや詩が理解できない人、すなわち「アスペクト盲」が存在することを挙げ、その理由を問うたが、著者はこれを「あるものの重要性を確認するために、そのものが存在しない事態を想定する」というウィトゲンシュタイン特有の戦略であると見なし、魂が宿ったようにしっくりとくる言葉をわれわれが選びとることができるのは、このアスペクトの変化に敏感に反応して言葉の立体的理解ができるようになっているからであるとする。
では、魂が宿って多様なアスペクトを放つ言葉とは何なのか?この問いは、ウィトゲンシュタインに大きな影響を与えたカール・クラウスの召喚へとつながってゆく。なぜなら、クラウスは言葉には意思伝達の道具としての働きのほかに、かたち(ゲシュタルト)を成すという働きがあり、言葉を理解するとは「その言葉のかたちを把握する」実践にほかならないと考えるからである。クラウスは「当該の言葉で表現されなければならなかったものが、その言葉の創造において初めて浮き彫りになるというパラドクシカルな構造」を「創造的必然性」と呼び、われわれはこの「創造的必然性」に遭遇するまでしっくりくる言葉を探しもとめなければならないとする。つまり、「クラウスによれば、言葉を選びとるというのはそれ自体が一個の責任である」ということになる。われわれがこの倫理を失い、しっくりくる言葉を探す努力を放棄したとき、すべての面で堕落が始まり、その堕落の果てにはナチズムが現れてくるはずだ。
日本で哲学研究というと、有名な哲学者の祖述を意味することが少なくないが、著者は日常の細部にこそ哲学の本質的問題が宿るという信念のもと、本著を書きあげている。この姿勢は高く評価されるべきである。
ゲシュタルト崩壊という小さな問題から始めて、言葉の危機という大問題を手繰り寄せていくその哲学的膂力に喝采を送りたい。
鹿島 茂(明治大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)