選評
社会・風俗2019年受賞
『「帝国」ロシアの地政学―「勢力圏」で読むユーラシア戦略』
(東京堂出版)
1982年生まれ。
早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。修士(政治学)。
外務省国際情報統括官組織(専門分析員)、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員、国立国会図書館立法及び考査局非常勤調査員などを経て、現在、東京大学先端科学技術研究センター特任助教。
著書 『プーチンの国家戦略』(東京堂出版)、『軍事大国ロシア』(作品社)など
本書は選考委員の間で高い評価を得た。この著者はロシアを中心とした軍事専門家であるが、視野の狭いいわゆる「軍事オタク」ではない。軍事や政治問題を、ロシアや旧ソ連諸国の社会や心理、文化、発想法などを深く理解し、日本や欧米のそれと比較しながら幅広く論じている。
例えば「国境」という概念も、ロシア人においては国際法的な境界線ではない。つまり一般の政治学上の国境ではなく、それは主権が及ぶ範囲に関わる心理的な「浸透膜」のようなもので、国際法的な国境線を超えた「心理的な勢力圏」を画するボーダーに近いとの指摘などがその典型だ。本書の受賞が政治部門であっても不思議ではないが、社会・風俗部門にも相応しいとされた理由もここにある。
筆者はまだ30代半ばであり、昨年わが国の国際安全保障学会『国際安全保障』最優秀新人論文賞を受賞した。2016年には大部の『軍事大国ロシア』(作品社)、『プーチンの国家戦略』(東京堂出版)も上梓し、専門誌などに多くの論文を精力的に発表している。しばしば冷戦時代のロシア問題研究者の方が今日の研究者より真剣だった、との評価が聞かれる。ソ連が二超大国の一つだったからだ。しかし本著者はこの評価を覆す実力を備えた、将来を大いに期待できる有力な研究者である。
本書では、ロシア人の意識における「ロシア」の範疇という問題から主権意識と秩序観、ウクライナ危機や中東でのロシアの復活、北方領土問題、地政学から見た北極といった問題などが論じられている。バルト諸国やグルジアのロシアによる「占領」に関しては、現地人やロシア人の社会心理もえぐられていて出色だ。
本書の特色を5点ほど挙げたい。
①語学の能力を生かして専門の文献・資料をロシア内外を問わず広く漁り深く理解して、それらを自由に駆使している。
②著者はロシアで生活や研究をし、また各国に出向いてロシア人や現地人との深い接触を保っている。それゆえ文献的知識だけでなく、「現地感覚」あるいは「内部からの視点」をしっかり有している。
③国際文化にも造詣が深い。例えば日ソ共同宣言に関してプーチンの「2島の引き渡し後に島の主権がどちらの国のものになるかについては明記されていない」との言に関して、『ベニスの商人』の「肉を引き渡すとあるが、血については触れていない」の有名な詭弁や一休さんの機知などを例にして見事に説明している。ちなみにロシア紙もこのプーチン発言を「厚顔だが見事な詭弁」と評している。
④わが国の専門家や政治家のロシア論は、一方的な価値観や期待を投影したものが少なくないが、本書の著者は相手側の論理を深く理解し、実証的かつ醒めた眼でバランスの取れた認識、評価を行っている。
⑤一般に若い研究者は、軽視されまいとのコンプレックスから持って回った難解な表現をする傾向が強いが、本書は難しい微妙な問題を多く扱いながら、それらをきわめて平易に表現している。これは、著者が真の実力と自信を有しているからであろう。
本賞の受賞を踏み台にして、小泉氏がさらに飛躍することを大いに期待したい。
袴田 茂樹(新潟県立大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)