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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史2018年受賞

山本 芳久(やまもと よしひさ)

『トマス・アクィナス 理性と神秘』

(岩波書店)

1973年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了(哲学専門分野)。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員(日本学術振興会海外特別研究員)などを経て、現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。
著書:『トマス・アクィナスにおける人格(ペルソナ)の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)

『トマス・アクィナス 理性と神秘』

 宗教は、信じるか信じないかの問題であって、論理や理性の問題ではない。信仰は、苦しい現実から逃れ、それを直視しないための幻想に過ぎない。私たちは日々、このような言説に接する。しかしながら、このような宗教や信仰の理解は、いささか偏っているのではないか。宗教は必ずしも論理や理性を排除するものではないし、信仰は逃避とは限らない。そのような豊かな思考の可能性を開いてくれるのが、山本芳久氏の『トマス・アクィナス 理性と神秘』である。
 新書として書かれたこともあり、本書は平易な言葉で書かれ、挙げられる例も親しみを持ちやすい。にもかかわらず、そこで展開されている内容は高度であり、安易な入門書ではまったくない。
 トマス・アクィナスというと、「遠い中世ヨーロッパの神学者」、「『神学大全』を書いた、権威ある保守的な神学者」というイメージを抱きやすい。しかしながら、本書を読めば、トマスが当時、最新の哲学であったアリストテレスの著作と、キリスト教神学をダイナミックな相互関係に置き直し、独自の総合を成し遂げた、「既存の権威への挑戦者」であったことがわかるだろう。
 本書の魅力は、著者の次のような表現に典型的に示される。「「理性的」とは、自らの限界を充分に弁(わきま)えながらも、どこまでもあらゆる実在――それは人間理性を超えた神の神秘をも含む――に対して自らを知的に開いていこうとする根源的に開かれた態度を意味している」。
 人間の理性にはたしかに限界がある。しかしながら、そのことは理性が無力であることを意味しない。むしろ、人間の理性は、人間の理性を超えた神秘と出会うことによって促され、あくまで理性的な探究を続けていく。神秘を理性によって理解し尽くすことはできないが、むしろ理解を超えているからこそ、神秘は汲み尽くせない意義と魅力を持っている。山本氏が描き出すのは、そのような理性と神秘の関係である。
 トマスにおいて、人間は天の祖国を目指し現世を生きる旅人である。ただし、この世はかりそめというわけではない。この世という道を歩む人間は、様々な経験を通じて、人生という道を適切に歩み続ける力を学ばなければならない。それが徳であるが、あくまで自らの持って生まれた能力を十全に開花させるためのものであり、「喜び」に満ちている。山本氏の描くトマス像はつねに明るく、肯定的である。節制や賢慮が求められるが、けっして抑圧的ではない。
 本書の最大のメッセージは、善は自己伝達し、自己拡散するというビジョンであろう。私たちは善を贈与されることで生き、そして人に善を贈与していく。読者は山本氏が描き出すトマスの思考を追うことで、人が学ぶこと、そして人が生きることの意味を再考するヒントを得るはずだ。
 およそ西欧的思考というものがあるとすれば、その骨格はトマスにおいてはじめて完成された――本書を読めばそのような知の見通しが得られる。そして今日、あらためてトマスを読むことは、キリスト教や西欧的世界の枠を超えて、多くの人々に学び、生きるための知恵を与えてくれることを知る。学芸賞という名にふさわしい、学知と人間知に満ちた本である。

宇野 重規(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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