選評
芸術・文学2018年受賞
『浪花節 流動する語り芸―演者と聴衆の近代』
(せりか書房)
1969年生まれ。
大阪大学大学院文学研究科博士課程修了(日本学専攻)。博士(文学)。
国際日本文化研究センター中核的研究機関研究員、大阪大学大学院文学研究科助手、北九州市立大学文学部准教授などを経て、現在、北九州市立大学文学部教授。
著書:『叢書現代のメディアとジャーナリズム4 大衆文化とメディア』(共著、ミネルヴァ書房)、『文化を映す鏡を磨く』(共著、せりか書房)など
浪花節は本格的に論じられてこなかった。戦前にはレコードでもラジオでも圧倒的な人気を誇るジャンルとして、この時代の文化のカギをにぎる存在だったはずなのに、あたかも前近代的な文化の残滓であるかのような扱いを受けてきた。兵藤裕己の『〈声〉の国民国家・日本』が2000年に出版されてようやく、近代国家としての日本を支える忠孝のモラルを浸透させてゆくための装置として浪花節の果たした大きな役割が明らかにされ、新たな視界が開かれたが、これで問題が片付いたわけではない。およそ文化というものは、すべてがそのような単一のストーリーに還元されてしまうほど一枚岩的なものではない。その実践の「現場」におりたってみれば、このストーリーを随所で裏切るかのような様々な活動が、その合間を縫うように展開されている。文化を語ることのおもしろさは、実はそのような部分にこそあるのだ。
本書の最大の特色は、浪花節のこの部分をしっかりつかまえたことにある。特に本書の中心をなす、寿々木米若(すずきよねわか)を具体的な事例として取り上げ、昭和戦前期から戦中、戦後にかけて、この演者が様々な状況とどのように対峙したかを論じてゆく部分の記述は圧巻である。レコード、ラジオなどの新しいメディアが次々と登場し、上演のあり方を大きく変えていった時代、そして「愛国浪曲」なるレパートリーが登場し、一気に戦時下の戦時協力体制に入ってゆく時代、さらにすべての価値観が180度ひっくり返ったかのような戦後占領期の時代へと続いてゆく激動の時期である。浪曲界全体をゆさぶった大きな動きの話に終始してしまいがちなこの時期を描くにあたって本書は、演者としての米若に焦点を合わせ、このような状況の中でいかにして彼の口演空間やそこでの聴衆との関係が作り上げられ、また維持されていったかを克明に描き出してゆく。
そこから明らかになるのは、レコードと劇場での興行とでレパートリーを微妙にずらし、レコードの演目を取り込みつつも劇場空間のあり方を保ち続ける工夫であり、国家が期待していた「愛国浪曲」の受け取り方を微妙に回避するかのようにそれらを受けとめる聴き手の姿である。そして、すべてが180度転換したかにみえる戦後においてもなお、過去のレパートリーの遺産を十二分に生かし、そのヴァリエーションで時代に適応してゆくことで、こうした口演空間の連続性を維持してきた彼らのしぶとく、またしなやかな対応が見事に浮き彫りにされてゆく。
本書を読むと、この激動の時代、浪花節が大きな存在感をもってしぶとく生き延びてきたことをあらためて実感させられるのだが、その存在感の大きさは今では失われてしまったようにもみえる。本書の記述は1950年前後のところで終わってしまうが、その後の時代の浪花節にどんな変化があったのか、あるいはその変化は見かけだけのことで、口演の「現場」に密着してみれば依然として同じようなしぶとさをもって生き延びているということなのか、そんなことも著者にきいてみたい気がした。
渡辺 裕(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)