選評
政治・経済2016年受賞
『「経済大国」日本の外交 ―― エネルギー資源外交の形成 1967〜1974年』
(千倉書房)
1983年生まれ。
慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了(政治学専攻)。博士(法学)。
慶應義塾大学大学院法学研究科助教、北海道大学大学院法学研究科講師などを経て、現在、北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センター協力研究員。
著書:『もう一つの日米交流史』(共著、中央公論新社)など。
1973年の石油危機は、戦後、日本が独立して以来、直面した最大の国家的危機だった。
それは高度成長を終わらせ、戦前同様、エネルギーが日本経済のアキレス腱であることの脆弱性を露わにし、中東における「中立」の立場の危うさと日米関係に潜む落とし穴を思い知らせた。
この時の日本の石油外交をめぐっては田中角栄首相の資源外交が米国の不信感を招き、それが後のロッキード事件で米国に葬り去られるきっかけとなった、といった類の陰謀史観が長年、幅を利かせるなど十分に解明されていない。
著者は、当時の内外の政府部内文書を丹念に収集し、生存者へのインタビューも踏まえ、外交史記述の政策決定過程を的確かつエレガントに分析している。
アラブ産油国の禁輸の衝撃で当初、アラブ寄りに振れた石油資源外交は、その1年後には、石油消費国協調の枠組みへと収斂していった。著者は、石油危機をその「真実の瞬間」だけで切り取るのではなく、1967年の第三次中東戦争とその際の石油の武器化から1974年の石油消費国協調、なかでもIEA(国際エネルギー機関)の設立までの時間的文脈に位置づけ、この過程で日本が国際経済秩序の形成へ参画し、国際国家として登場する軌跡を丁寧に跡づけている。そして、そこでの消費国間協調の戦略的意義は、石油問題だけでなく、より広い自由主義的な国際経済秩序の維持という観点からも認識されていたこと、そして、消費国間協調参画にあたって、その目的に産油国との対話促進を掲げることで消費国間協調に反対する国内外の声に配慮していたこと、を鮮やかに解明している。
石油危機に直面したとき、当初の最大のポイントは、日本が制裁対象に入れられるかどうか、だった。その年夏、東京で開かれた中近東大使会議では、日本は「政治的にまったく無関係であるという有利な立場」にあるのだから制裁対象にならないとの見方が優勢だった。しかし、それは日本を中東における「善意の第三者」と思いこんだが故の「甘い期待」に過ぎなかった。
その点、中曽根康弘通産相はリアリストとしてより怜悧に状況を把握していたのではないか。著者は、中曽根と大平正芳外相の間の、産油国と消費国、「量」と「価格」をめぐる力点と視点の相違、さらには対米姿勢に関して自主外交を標榜し、保守傍流を自任する中曽根と、自らを保守本流と考え、対米配慮を重視する田中の違いを指摘している。確かにそういう面があることは間違いないが、石油地政学に対する感度と把握力の点で、中曽根外交はもう少し評価されてもよいと思われる。危機時に産油国との二国間取引も含めて「量」をなんとか確保できたからこそ「価格」での巻き返しも可能になった面もあったであろうからである。
「甘い期待」の背景には、ブレトンウッズ体制の中のもっとも弱い環ともいうべき「安価かつ安定的に供給される石油」の国際システムの不整備の課題や、日本の対外戦略において、石油、いや経済もまた安全保障ととらえる総合安全保障観の稀薄さと地政学リテラシーの欠如が横たわっていたのではなかったか。
船橋 洋一(日本再建イニシアティブ理事長)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)