選評
社会・風俗 2015年受賞
『越境する宗教 モンゴルの福音派 ―― ポスト社会主義モンゴルにおける宗教復興と福音派キリスト教の台頭』
(新泉社)
1975年生まれ。
東北大学大学院文学研究科博士課程後期3年の課程修了(人間科学専攻)。博士(文学)。
東北大学大学院文学研究科助教、宮城学院女子大学非常勤講師、東北学院大学文学部非常勤講師などを経て、現在、長崎大学多文化社会学部准教授。
著書:『ノマド化する宗教、浮遊する共同性』(編著、東北大学東北アジア研究センター)、『無形民俗文化財が被災するということ』(共編著、新泉社)。
日本の学問も捨てたものではない。「モンゴルの福音派」という一見誰の役にも立ちそうもない研究――学問や文化の本来の姿なのだが――に若い学者が何年も没頭し、日本学術振興会や諸財団も支援してきた。最近、目先の利害による大学改革の動きがあるだけに、この点は強調しておきたい。さて本書の内容だが、3つの側面が高く評価できる。
1つは、社会主義と宗教の関係を、ロシア、東欧、中央アジアなども視野に、一般論として広く考察していることだ。一般に「社会主義体制崩壊後の精神的真空状態を宗教が埋めた」と言われるが、現実社会ではその状況は複雑で、それを具体的かつ論理的に考察している点を評価したい。
第2は、社会主義から民主主義への転換期におけるモンゴルの宗教事情の考察である。モンゴルの宗教法は仏教に優先的地位を与え、伝統的宗教すなわち、仏教、イスラーム、シャマニズム以外の、特に外国からの、宗教の組織的な伝道活動を禁止している。これに関連して憲法や宗教法をめぐる論争が本書では紹介されている。また、宗教と国家や民族、伝統などの関係といった根本問題も、社会主義との関連で考察されている。この問題はロシアに関してはかなり研究されているが、モンゴルに関してはほとんど知られていないだけに、貴重であり高く評価したい。
なお、本書ではもっぱら社会主義との関係で宗教が分析されているが、19世紀末すなわち社会主義以前のモンゴルにおける仏教(ラマ教)、キリスト教(ロシア正教)の状況について報告した著作としてはG・ラムステッドの『七回の東方旅行』がある。今後は、社会主義以前のモンゴル宗教の源流も視野に入れて比較分析すると面白いだろう。
第3は、これが本論であり最も興味深い側面だが、近年モンゴルで急速に台頭した福音派キリスト教の考察だ。重要なポイントは、本書の題名にもなっている「越境」の意味である。越えられるのは単に国境だけではなく、民族、社会集団、言語、世界観などの境界である。特に強調されるのは、福音派が宗教という枠さえも越える点だ。「福音派キリスト教は宗教ではない」という主張に焦点が当てられて分析される。「宗教」ではなくより普遍的な「信仰」だとの主張は、外来宗教弾圧に対する避雷針でもある。この分析で興味深いのは、福音派と社会主義における「宗教」の意味が、共に否定的という意味において通底しているとの指摘だ。また、「神」の概念をどう翻訳するかという言葉の問題を、「仏」の概念との関連で分析している点や、現地調査を踏まえて、具体的な福音派の信者が直面する家族や伝統社会との葛藤を考察している点が、本書の最も重要な部分である。
ただ、選者たちが一致して指摘した問題点は、文体の生硬さだ。「位相」という語がやたらに多用されるし、学界では一般化した「言説」などの用語も、一般向けとしては工夫すべきと思われる。これは単に言葉の問題ではなく、思考そのものの練度を深めることによって、よりこなれた文になると思われる。
最初に述べたことと関係するが、このようなマイナーなテーマの優れた研究が評価されることは、後続の若い研究者たちを勇気づけるだろう。
袴田 茂樹(新潟県立大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)