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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 2014年受賞

福嶋 亮大(ふくしま りょうた)

『復興文化論 ―― 日本的創造の系譜』

(青土社)

1981年生まれ。
京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了(中国語学中国文学専攻)。博士(文学)。
現在、京都造形芸術大学文芸表現学科非常勤講師、日本学術振興会特別研究員。
著書:『神話が考える』(青土社)

『復興文化論 ―― 日本的創造の系譜』

 戦乱や災害という、国を荒廃へと至らしめる災厄の後、それを「無常観」や「諦観」で受けとめるのではなく、事後それを「立て直す」ところにこそ日本文化の創造性が認められることを主張した意欲的な論考だ。
 発端に、「日本文化はつねに復興文化として発展してきた」という山崎正和の指摘があったが、その発想を著者は独自の仕方で論として組み立てる。「〈戦前〉の緊張に耐えるよりも〈戦後〉のショックや混乱を受け容れつつ文化をリフォームする」そうした再建の仕事に文学的才能が投下され、そのことによって「新しい文化的神経」が編みだされてされてきたことを、著者は古代から現代までの日本文学の営為のなかに読み込む。「私たちの先祖は、嵐の過ぎ去った後=跡の時空を、さまざまな思索や表現を発酵させる特別な窪地に変えてきた」というのである。
 そのような視点から、柿本人麻呂、空海を、『平家物語』や滝沢馬琴や上田秋成を読み解き、日露戦争と漱石、関東大震災と川端康成、第二次大戦後と宮崎駿、阪神・淡路大震災/オウム事件と村上春樹らを論じる。災厄の後に、そのトラウマ的体験を歌として、物語として反復し、「ワクチンのように」接種し抗体をつくることで、「負傷した社会」とそこでの底知れぬ喪失体験を持ち堪える心的機制を見てゆくのである。
 著者は中国文学史の研究者であり、まだ30代前半の若手でありながら、日本の文芸史・文化史をここまで通史的に論じえたというのは驚異である。いや驚異であるというよりも、そういう研究上のバックボーンこそが、この冒険的な仕事の厚い裏張りになっている。それは、著者による中国の滅亡史としての『史記』の読解や、「遺民」という国家滅亡の当事者のナショナリズムと江戸期におけるわが国へのそのヴァーチャルな移入といった論述からうかがい知ることができる。とりわけ、カーニバル文学としての『水滸伝』と遺民たちの復興文学としての『水滸後伝』をめぐる記述は、国家を突き抜けてゆく獰猛な力を描き、またラブレーとの同時代性も想起させ、その叙述には凄みをすら感じる。この本の蔭の白眉をなしていると言ってもいい。
 「一神教を生み出さなかった東アジアの風土においては、超越性は神ではなく滅亡体験に宿った」と述べつつ、同時に、中国大陸の復興文化を参照しながら、全面的な滅亡が生みだす『水滸伝』などにうかがわれるような「柄の大きい」文化がついに日本に生まれなかったこと、中国の遺民の滅亡体験を「咀嚼し、検証し、精錬」することなく「漫画的スペクタクルとして消費」するほかなかったことの意味を、著者は執拗に問うている。そして、一方で、災厄後すぐに「立て直し」にとりかかるその「機敏さ」を称揚しながら、他方で、「逃げることや沈むことに活路を見出した日本文学は、高みに昇るための翼だけは今なお持ち得ていない」と苦々しく書きつける。
 本書は表題からつい想像されそうな3・11以後の震災文学論ではない。度重なる災厄とそこでの深い喪失にどう向きあってきたかという位相でこそ日本文化の創造性を問いうるという、そうした視点からする日本文化論の構想に、震災後、諸文献にかじりつきながら取り組んだまさにその地点で、東北の現在に深くつながるものである。

鷲田 清一(大谷大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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