選評
社会・風俗 2014年受賞
『儒学殺人事件 ―― 堀田正俊と徳川綱吉』
(講談社)
1964年生まれ。
一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了(日本思想史・日本近世史専攻)。博士(社会学)。
北海道教育大学教育学部准教授などを経て、現在、中京大学文学部歴史文化学科教授。
著書:『大佛次郎の「大東亜戦争」』(講談社)、『文武の藩儒者 秋山景山』(角川学芸出版)など。
江戸時代を通じて殿中、つまり江戸城内での刃傷沙汰は7件あったという。犯人も被害者も身分の高い人物ばかりである。それがなぜこんなことを、とも思うが、厳しくしつけられていたとはいうものの、もともとお坊ちゃん育ちの集団で、それが刀を所持しており、剣術の心得もある。息がつまりそうな身分制の狭っ苦しい世界で、かーっと頭に血がのぼったら自分を制することが出来ないという人もいたのではないかと想像すると、7件はむしろ少ないのかもしれない。
ところが、その中の一件、貞享元年(1684)に、若年寄・稲葉
著者・小川和也は、この事件について、文献、史料を精読し、時代背景について考察して、思いもかけぬ結論を導き出す。本書の題名は「殺人事件」と、それこそドラマティックであるが、「綱吉とその時代」とでもいうべき内容で、その論述は極めて説得的である。
話は将軍、徳川綱吉の儒学好きというところから始まる。元禄3年、綱吉は幕府の儒官・林
綱吉は経書、すなわち儒学書の講義を大変に好んだそうで、江戸城での講釈は240回にも及ぶと言う。その間誰も皆かしこまって素人講義を聞いていなければならないわけであるから、まあ、落語の「寝床」の高等版みたいな状況があったに違いない。
綱吉の名は、例の悪法「生類憐みの令」で知られている。それがどんなに細かく、官僚的で神経質、そして病的なものであったかと言うことも、本書に詳しい。
将軍様が病的であれば、役人らは迎合し、それに輪をかけて細かく気を配るようになる。どこの村の誰がどんな犬、猫、牛馬を飼っているかまで詳細に記録し、もしそこに違反があれば厳しく、しばしば厳罰というか極刑に処す、という状況である。
諸人仁愛の心これある様にと常々思し召され候ゆえ、生類あわれみの儀、度々仰せ出られ候処、この度、橋本権之助、犬を損わさし、不届きに思し召され候、これにより死罪仰せ付けられ候・・・
この橋本権之助なる者は幕臣である。それが犬を傷つけたので、死罪に処す、と言う触れ書である。世界に類の無い動物愛護の法律ではあるが、人間愛護を忘れている。
今と比べて、自由に物の言いにくい時代であるから、ここに引用されている史料の類にしても、表面は何食わぬ顔で取り繕ってあったりする。その行間を読まなければならないわけで、これだけの錯綜した事件を読み解き、構成し、叙述する著者の手腕は素晴らしいものと言わねばならないし、それを助けた編集者の力量も大いに評価できる。
たとえば森鴎外がこの作品を読んだら果たして何と言うか、ちょっと想像して見たのだが、「よく調べている。面白いね」と言ってくれるのではないか、と私は思った。
奥本 大三郎(埼玉大学名誉教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)