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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2014年受賞

長門 洋平(ながと ようへい)

『映画音響論 ―― 溝口健二映画を聴く』

(みすず書房)

1981年生まれ。
横浜国立大学大学院教育学研究科修士課程修了(芸術系教育専攻)。総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程修了(国際日本研究専攻)。博士(学術)。
現在、国際日本文化研究センター機関研究員。
著書:『「戦後」日本映画論』(共著、青弓社)、『日本映画は生きている 第2巻 映画史を読み直す』(共著、岩波書店)

『映画音響論 ―― 溝口健二映画を聴く』

 映画と音というテーマには誰しも興味をもつが、これまでめぼしい成果は少なかった。「映画音楽」論はそれなりに数はあっても、特徴的な場面を取り上げた場当たり的な話に終わりがちだった。狭義の「音楽」という枠を取り去った、音響効果全般という切り口もあるが、これまた、現場の音響マンの芸談風苦労話以上のものはなかなか出てこなかった。
 この分野の研究も近年ようやく活況を呈しはじめてきたと思っていたら、いきなりとてつもない大作が出現した。本書のタイトルが「映画音響論」であり、「映画音楽論」ではないことが、これまでの論の問題点と本書の斬新さのありかを端的に示している。著者が再三書いているように、これまでの「映画音楽論」は、どうしても「音楽」の枠組みに引っ張られすぎて、「伊福部昭研究」、「武満徹研究」式の作曲家研究になってしまい、その結果、映画表現の側をきちんと分析して問い直すことがおろそかになりがちだった。従来の映画音楽論が、なかなか場当たり的な論以上にならなかったのは、まさにそのためであり、その分だけ、「溝口健二映画を聴く」という形で監督の表現世界の側から映画の内実に肉薄する議論に成功した本書の斬新さが際立つのである。
 その一方で、「音楽」という概念を消去して「音響」に解消しきってしまわなかったところに本書のもう一つの強みがある。本書に登場するのは深井史郎、早坂文雄、黛敏郎などの音楽だが、『赤線地帯』での黛の音楽などは、日本近代音楽館に所蔵されている黛の自筆譜を参照した上で、音楽的な内容にも立ち入った丁寧な議論が展開されており、それを通して、作曲者たる黛の意図やその結果生み出された音楽表現が、溝口の映像表現と取り結ぶ関係が見事に浮き彫りにされる。よくありがちな、現代音楽の響きが映画のサスペンス的表現を効果的に盛り上げるといった次元の話をはるかにこえて、黛の意図的な表現が溝口の映画世界を豊かにするのみならず、映像そのものにはない表現の可能性を切り開く役割を果たしたことの内実が見事に示されるのである。
 映画の音についてのこうしたアプローチは、実は欧米ではかなり進んでいる。本書もそのような成果をふまえたもので、ある意味ではその「日本版応用編」と言えなくもないが、文化的コンテクストの全く違う日本映画に「応用」するのは並大抵のことではないし、何よりも、サイレント期の作品である『東京行進曲』から最後の作品『赤線地帯』まで(もちろん全作品を取り上げたわけではないとはいえ)、一人の作家の表現世界全体を「音」という切り口で統一的に捉えた本作のような著作は欧米にも稀有なものと言って良いだろう。『残菊物語』クライマックスの、お徳の死の場面に関して、著者が新たな解釈を引き出してくるプロセスは、身の毛がよだつほどスリリングであるとともに、溝口のこの作品の評価を左右するほどに映画表現の深奥部に食い入るものになっている。この解釈の当否自体には議論の余地もあろうかとは思うが、音に着目することで溝口研究に新たな次元を切り開いたことは間違いないし、音や音楽の研究が映画研究にとって決して副次的ではなく、時に死命を制するほどに中核的な役割を担いうることを、説得力豊かに示しえたということだけでも、十分に受賞に値すると言わねばならない。

渡辺 裕(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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