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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2013年受賞

阿部 公彦(あべ まさひこ)

『文学を〈凝視する〉』

(岩波書店)

1966年生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ケンブリッジ大学大学院博士課程修了。博士号取得(Ph.D.)。帝京大学文学部専任講師などを経て、現在、東京大学大学院人文社会系研究科准教授。
著書:『英詩のわかり方』(研究社)、『スローモーション考』(南雲堂)、『小説的思考のススメ』(東京大学出版会)など。

『文学を〈凝視する〉』

 阿部公彦氏の『文学を〈凝視する〉』は、「凝視」という観点から、現代の詩、小説、絵画など様々なジャンルを渉猟し、人はどうして凝視することがかくも好きなのかという疑問に始まって、じっと目を凝らしながら人はいったい「それ以上」「それ以外」の何をしているのか、そしてそのように作品に向き合う人間にとって、そもそも文学・芸術作品が「わかる」とはどういうことか、といった問いかけに至る、長編評論である。
 このように説明しただけでもすぐに浮かび上がってくる本書の際だった特徴は、第一に、難解な批評用語を振り回さず、普通の読者に「わかる」言葉によって問題を立てながら、自らもまた対象を読者とともに凝視しながら論を進めているという点であろう。著者はもともと英米詩の研究者であり、ケンブリッジ大学で博士号を取得した英文学の俊才である。深い専門的知識と批評理論の素養は当然本書全体の支えになっているが、それはいわば風味のよい出しのように全体に溶け込んで、表にでしゃばることがない。
 第二に、各章ごとに自由闊達に作家や作品を変え、軽やかなフットワークで凝視という主題を変奏していること。対象を凝視しながらも、特定の作家や作品にとどまって深くその世界にはまり込んで身動きがとれなくなることを注意深く避け、軽やかなフットワークで動き続ける爽やかな知の運動がここには見られる。古井由吉の言う「深みを表層に表す」という批評精神の実践と呼ぶべきものだろう。
 第三に、それにもかかわらず、散漫な総花的な論考には決して陥らず、全体として重い主題に向き合った正々堂々たる文学論の手応えがあること。阿部氏が 扱っているのは、結局のところ、人間にとって「見る」「読む」といった行為が何を意味するのか、その行為が露呈させる「亀裂」とは何なのか、そして小説や詩が読みにくくなった現代にあってもなおかつ文学が意味を持つとしたらなぜなのか、といった根源的な問いである。これは「技術的」な業績でしのぎをけずる現代の多くの若手研究者の中にあって、稀に見る美点であろう。
 本書は具体的には、茨木のり子の一見平易に見える詩から説き起こし、萩原  朔太郎、ワーズワス、西脇順三郎などに至る詩人たちの作品の読み方を示す一方で、美術の分野にも積極的に足を踏み入れ、ハンス・ホルバインのだまし絵に秘められた謎の解読を枕にして、ホジキン、ロスコ、モランディといった20世紀の画家たちの絵を見るためにはどうすべきなのかを論じている。そして小説家・批評家としては、古井由吉、太宰治、小林秀雄、柄谷行人、志賀直哉、夏目漱石、大江健三郎、松本清張などを取り上げ、それぞれの作家の文体に関して繊細な観察を行うとともに、彼らの凝視の作法を鋭く分析していく。
 凝視というモチーフによってややアクロバティックに繋がれていると思える側面がないわけではないのだが、簡単には結びつかないように見える詩人・画家・小説家たちが阿部氏の学識と才気と洞察力のおかげで、見事な意匠を織りなしていくことには感嘆するしかない。批評の業と研究者の力の両面を鮮やかに発揮した、サントリー学芸賞に相応しい著作である。

沼野 充義(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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