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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 2012年受賞

酒井 隆史(さかい たかし)

『通天閣 ―― 新・日本資本主義発達史』

(青土社)

1965年生まれ。
早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。
大阪女子大学人文社会学部専任講師などを経て、現在、大阪府立大学人間社会学部准教授。
著書:『自由論―現在性の系譜学』(青土社)、『暴力の哲学』(河出書房新社)

『通天閣 ―― 新・日本資本主義発達史』

 大規模な博覧会を開催して人を集めれば都市が整備され、いわゆる公共工事で官から金が下りる。そして大量の人が集まれば街に活気が出て金が集まる。それは今も昔も同じである。古くから、そうしたイベントの有利さに人々は気付いていた。いや、気付いている人々は多くても明治新政府が出来るまで、そういう資本主義的な事業はめったに許されなかったのである。
 そうした企画のなかでもとりわけ大規模なものとして、内国博覧会があった。その第五回の開催地が、「大阪市南区天王寺今宮」に決定したのは、1900(明治33)年のこと。大阪が、誘致合戦で、東京、仙台、名古屋等、他の候補地を押さえて勝ったのである。
 しかし、その大阪でも、どの地域にするかとなると、もちろん利権が絡む。資金力を有する者と議員連、そしてヤクザの親分衆らが、西区か南区か、オモテとウラとで最後まで争った末、この天王寺に決まったのであった。
 ではその候補地には何があったか。そこには田圃と、スラムがあった。人の住んでいない地域は開発に適しているけれど、問題は後の方である。北方面からの幹線道路である堺筋沿いには近世以来の貧民窟が広がっていた。住民の数は約一万。貧しい人々が木賃宿、長屋など、狭苦しい所に群がって住み、悪臭が鼻をつき、衛生状態は最悪で、コレラの巣とみなされていた。
 博覧会場を建設するためにはスラムを取り払わなければならないし、それもひとつの都市改造である。この事業は、ただの催し物ではない。“勧業博覧会”であって、明治天皇が六回も来られる、日本国近代化のためのいわば国策なのだ。では、住民の立ち退きを実質的に誰が受け持つか。それはヤクザなのであった。警察官が立ち退けとふれて回って、その後を、片っ端からヤクザが叩きつぶして行った。追われた住民は南方面に移動して行き、それが釜ヶ崎の起源になる。
 そうして建設された博覧会場のそれぞれの建物には、20世紀の象徴ともいうべき電気仕掛けの照明が設置された。夜になると正門には「第五回内国勧業博覧会」という文字が明滅し、各館にはいっせいにイルミネーションが点灯された。正門近くの高さ75尺の噴水塔から、照明で照らされた赤色の水煙が吹き上げられ、美術館の池の大観音像は五色の光でライトアップされた。住むところを取り壊され、行き場のない貧しい人々はそれまで見たこともなかった電灯の明るさに驚き、会場の外からその光景に眼を瞠ったに違いない。さらに美術館の傍らには、150尺の塔が建てられた。建設者の名から大林高塔と言う。しかもこれには大阪初のエレベーターが設置されていたのである。これが通天閣の直接のルーツとなった。
 著者は、役所の書類からパンフレットの類にいたるまで、ほとんどマニアックなまでに、というか、凝りに凝って、と言ったほうがふさわしいかもしれないが、考え得る限りのありとあらゆる資料を漁って当時の事情を発掘し、またその後の通天閣にまつわる物語を展開している。
 「ジャンジャン町パサージュ論」、「王将―阪田三吉と『ディープサウス』の誕生」、「無政府的新世界」等、目次はごく大雑把だが、中身はきわめて豊富で、まさに縦横に論じられており、話の糸はもつれて、時にはこの界隈の歴史そのままに混沌とした迷路の観を呈する。しかし、それがまた尽きせぬ興味をそそるのである。

奥本 大三郎(埼玉大学名誉教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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