選評
政治・経済 2012年受賞
『鮎川義介と経済的国際主義 ―― 満洲問題から戦後日米関係へ』
(名古屋大学出版会)
1964年生まれ。
シカゴ大学大学院社会科学研究科博士課程修了。Ph.D.。
同志社大学アメリカ研究所助教授などを経て、現在、名古屋大学大学院環境学研究科教授。
論文:「ボナー・フェラーズと戦略情報局企画部」(『Intelligence』第11号所収)、「共和党右派とダグラス・マッカーサー大統領候補擁立運動」(『史林』第92巻第5号所収)など。
鮎川は、明治13(1880)年、山口県に生まれ、昭和42(1967)年、没した。大叔父が井上馨、義弟が久原房之助、岸信介、佐藤栄作も親戚という濃密な長州人脈を背景に、卓抜な経営の才覚を発揮し、日産コンツェルンを作り上げ、関東軍の要請でこれを満州に移して満洲重工業を作り上げ、満州国の建設に大きな役割を果たした。その勢力は、関東軍参謀長の東条英機、国務院総務長官の星野直樹、総務庁次長の岸信介、満鉄総裁の松岡洋右とともに、ニキサンスケと呼ばれるほどであった。
この本は、鮎川の活動の国際政治的意味を解明しようとした研究である。鮎川は、日本の産業の高度化のために、アメリカ資本の導入が不可欠であると信じ、満州事変以後には、アメリカ資本の導入により、満州の経済を発展させると同時に、日米関係を安定させることを目指した。その構想の中核は、1937年から40年にかけて追求された、日産自動車とフォード自動車の提携工作だった。
こうした構想を著者は経済的国際主義と呼んでいる。その観点から著者は、鮎川のアメリカでの人脈と活動をつぶさに検討し、とくにハーバート・フーヴァー前大統領との関係を重視している。現在ではフーヴァーは、大恐慌の処理に失敗した大統領として、フランクリン・ルーズヴェルトの影に隠れているが、1920年代には重要な国際協調主義者であった。
鮎川の構想は、言い換えれば、アメリカの伝統的な門戸開放主義の修正版であった。その可能性と限界を追求することが、本書の基本テーマである。
その過程で、著者は様々な興味深い事実を明らかにしている。たとえば、満州国建国以後も、アメリカは、「満州は中国の一部」という建前の中で満州における総領事館を維持しており、そこを基盤に満州国の現状を分析していた。そして、満州が日本に対する資源供給においては成功していても、産業の高度化という点では失敗し、対ソ安全保障能力の強化という目的においても失敗していたことを把握していた。
その他、様々な分野において、鮎川は経済活動を通じて満州国の事実上の承認を追求し、国際対立を克服しようとしており、昭和16年の日米交渉についても関与していたことが、明らかにされている。
評者は次のように考える。すなわち、満州国ないし日本の側において、鮎川が望んだほど満州国は門戸開放的ではなかった。また、アメリカ国務省は、1920年代においても、日本の満州権益に対して非協力的であり、満州事変以後には、満州国の存在に対して強く批判的であり、その批判は日中戦争勃発後にさらに強まっていた。著者のいう修正門戸開放主義が機能する余地はかなり小さかったように思われる。
鮎川は、戦後、インフラ建設や中小企業育成政策に取り組み、そこにおいても、アメリカ資本の導入をめざすが、それは共通の利益の創造という点で、戦前の活動と連続していた。
本書には、いくつか疑問なところもあるし、やや構成が弱い感じもある。しかし、1930年代と1950年代前半の日米関係を考える上で実に多くの示唆に富む興味つきない著作である。
北岡 伸一(政策研究大学院大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)