選評
政治・経済 2010年受賞
『伊藤博文 ―― 知の政治家』
(中央公論新社)
1967年生まれ。
京都大学大学院法学研究科博士後期課程単位修了。 博士(法学)。
神戸商科大学商経学部助教授、兵庫県立大学経営学部教授などを経て、現在、国際日本文化研究センター准教授。
著書:『ドイツ国家学と明治国制 ― シュタイン国家学の軌跡』(ミネルヴァ書房)、『文明史のなかの明治憲法 ― この国のかたちと西洋体験』(講談社)など。
本書の魅力は「旅」にあろう。
黒船襲来の12年前に、周防国(山口県)の片隅に生れた農家の子が、途方もない旅を繰り拡げることになる。まず伊藤家の養子となって侍の末端に連なり、16才で松下村塾に入って幕末維新の動乱にかかわる位置をとった。若き伊藤は英国公使館の焼き打ちに加わり、テロを行う尊皇攘夷の討幕派であった。
旅を重ねる度に学習し成長するのが伊藤博文である。22才で英国へ密航した結果、早くも攘夷派を卒業し、文明(近代西洋)に学ぶ立場を見出した。英語のできる急進的改革派であった若い伊藤が、岩倉使節団の失敗の多かった旅を通して漸進主義者に熟する。疲れを知らぬ「周旋家」であった伊藤に文明観という認識の筋が通るとともに、時を選ぶ漸進主義の感覚が備わる。それは内外の激動の中で新国家を生み育てる大事業になくてはならない資質である。大久保利通が近代化路線を樹立して逝った後、伊藤は国家新制度の設計者として走り続ける。
次なる大きな旅は、明治14年政変後、憲法制定を準備するヨーロッパでの調査研究であった。このあたりまでの「文明」を求めての旅は、伊藤の知的挑戦を描き出し、著者がすでに前著でも魅力的に論じた得意分野である。だが憲法制定と議会開設をもって新国家創設仕事が終るわけではない。欧州でシュタイン教授から教わる中で、憲法体制は行政のよき機能を伴わずには存立しえないことを確信した伊藤であった。さらに、「国民政治」の肉づけなくして立憲体制は充実を見ることはない。そのために新たな担い手としての政党の発展が不可欠である。行政にせよ、政党政治にせよ要は人材であり教育である。伊藤は空虚な大言壮語型の論客よりも問題に対処できる専門的・技術的内容をもつ人材の育成を重視した。
本書は、初代内閣総理大臣をはじめ4度政権を担い、初代の枢密院議長、政友会総裁、韓国統監として、明治国家設立のプログラムを着々と旺盛に展開した成功者としてのみ伊藤博文を描いているわけではない。国家体制樹立に際し、重要な欠陥を組み込んだことを伊藤は自覚していた。その克服・挽回のためにこそ懸命の画策を繰り返さねばならなかった後半生でもあったことを本書は示唆している。重要な欠陥とは、大宰相主義を実現できなかったこと、すなわち内閣が政治全体を統轄する権限を持たず、分立的な弱い政府しか明治国家が持ち得なかったことである。とりわけ軍部に独立的な大権を認めたことの問題性を意識していた伊藤は、公式令制定という行政手続制度、帝室制度、さらには満州や韓国の外地統治制度といった周辺的制度改革によって本来あるべき強い政府を取り戻そうと苦闘する。1945年に致命傷であることを露呈した明治政府の二元制を、伊藤がかくも重視していたことを本書は明らかにしている。
ともあれ明治国家のあり方を求めて度々欧米に旅しただけでなく、その定着のため頻繁に日本国内を旅し、さらに中国・韓国のアジア周辺国が文明を共有することを願って旅することをやめなかった伊藤であった。
今や東アジアの歴史も一回転し、中国や韓国のたくましさをわれわれは眼のあたりにしている。1945年にひとたび沈んだ日本も戦後は経済国家として再生し短い隆盛を誇った後、衰退の影におびえている。そうした中で遠い存在になりかけていた明治の建国者・伊藤博文を甦らせる研究潮流の高まりは喜ばしいことである。絶え間なく流転する事態に対するあくなき状況思考の達人でありながら、生涯にわたり「文明」なる理想を求めて旅をやめなかった伊藤博文への旅を、われわれに可能にした本書を多としたい。
五百旗頭 真(防衛大学校長)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)