選評
社会・風俗 2010年受賞
『モスクワの孤独』
(現代書館)
1969年生まれ。
大阪大学大学院言語文化研究科博士前期課程修了。
日本経済新聞社などに勤務の後、図書新聞に入社し「図書新聞」編集長を務める。現在、図書新聞スタッフライター、上智大学文学部新聞学科非常勤講師。
著書:『ジャーナリズム考』(凱風社)など。
1960年代から70年代のソ連に留学していた評者にとって、ソ連での最大のカルチャーショックは、知識人たちの精神世界の凄さであった。彼らは文化活動が自由な国のはずの日本よりもはるかに深く芸術や文化の世界に、全身全霊を挙げてのめり込んでいたのだ。それは宗教的といっていいほど全存在をかけたひたむきさであった。また、この精神世界こそが、ソ連の反体制知識人たちの運動や発言のバックボーンでもあった。それについて評者は、「精神的価値とリーチノスチ(人格)の復権」と題する文章やソ連の「知識人群島」について本を書いたりしたが、このソ連の知識人世界の雰囲気は、ロシア研究者やロシアに関心をもっている人たちに対しても、最も伝えにくいことだと日頃痛感していた。詩とか芸術、文化の問題を、当時のソ連知識人のような感覚でとらえることのできる者は、わが国にはほとんどいないからだ。ソ連の異論派とか反体制と言われた知識人について書いた本や論文はわが国でも沢山出たが、そのほとんどは、ロシア知識人のこの精神世界を理解していなかった。
本書を初めて読んだとき、まさに私が伝えたいと思っていた世界を丹念にフォローしていると感じた。600ページを超える分量だが、1960年代から今日までのソ連知識人の世界に関して、わが国で最も立ち入って述べた書である。フルシチョフ時代を象徴する言葉となった「雪どけ」は、エレンブルグの作品に由来するが、本書ではまず彼の『人びと、時代、人生』(邦訳『わが回想 人間・歳月・生活』木村浩訳、朝日新聞社、1969年)が党イデオロギーを相対化するにあたって与えた巨大な精神的影響について述べられ、また体制に付かず離れずのエレンブルグについての賛否様々な評も紹介されていて面白い。マンデリシュターム、ツヴェターエワ、アフマートワなどの詩集(地下出版)はソ連では聖書扱いであったが、詩人の妻ナジェージダ・マンデリシュタームが書いた回想録(邦訳『流刑の詩人・マンデリシュターム』木村浩・川崎隆司訳、新潮社、1980年)を巡る論争も本書の目玉でもある。夫を崇拝するナジェージダが、まるで審判者のような立場でソ連知識人をなで切りにしたことに対して、ロシアでは激しい反発が起きた。1960年代のダニエル=シニャフスキー事件や1968年のチェコ事件に反対する赤の広場でのデモなどに関わったラリーサ・ボゴラスに関しては、260ページも費やされている。彼女についてはわが国でもほとんど知られていないだけに、貴重である。1989年、まだソ連時代に初めて米国を訪問したボゴラスは、精神的には米国の方が画一的でありモスクワにいる彼女の周りの知識人の方が自立している、との印象を述べている。評者も日本についてそう感じているが、このことが解ってはじめて、ソ連知識人が理解できたと言えるだろう。
本書は、選者たちが一致してこの部門で一位に推薦した。淡々と自制した文体も、こなれた名文と言える。ただ欲を言えば、著者の知識人論、文明論をもっと骨太に出してほしかった。また、ソ連知識人の精神世界を知っている評者としては、あの熱っぽい雰囲気をもう少しリアルに出してほしいという気もする。
袴田 茂樹(青山学院大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)