選評
芸術・文学 2010年受賞
『俵屋宗達 ―― 琳派の祖の真実』
(平凡社)
1964年生まれ。
東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程中退。
東京国立博物館学芸部美術課絵画室研究員、東京国立近代美術館主任研究官などを経て、現在、東京藝術大学大学美術館准教授。
著書:『狩野芳崖・高橋由一 ― 日本画も西洋画も帰する処は同一の処』(ミネルヴァ書房)など。
古田亮氏の『俵屋宗達』はこの画家の謎と魅力を縦横に語って読者を飽きさせない。読み終わった後に、なぜ宗達がこれほど人を惹きつけるのかじつによく腑に落ちる。
構成がいい。まず自身がキュレイターとして企画した「琳派 RIMPA」展に触れている。日本画の展覧会にRIMPAなどというローマ字を使うこと自体、顰蹙を買うかもしれない。場所も東京国立近代美術館である。だが、著者は堂々と企画の趣旨を語っている。むろん現代的、国際的視野の提示である。それがまた本書執筆の理由につながっている。そのとき宗達だけは別格に思えたというのだ。
宗達は琳派かという問いが兆す。こうして「宗達が『琳派』と呼ばれるまで」(第1章)が語られるが、これがじつに面白い。歴史は書き換えられるのが常識だが、美術史においてとりわけ顕著であることがよく分かる。顕著であることにおいて明確に時代がその貌を出すのだ。慶長から寛永にかけての全盛以後は、宗達は長く光琳の影に隠れていたし、光琳にしたところで狩野派の影に隠れていることのほうが長かった。琳派という呼称そのものも明治以後に属する。しかも宗達は経歴に不明な点が多すぎた。ところが、大正以後、何度か宗達ブームが起こる。西洋の眼の影響すなわち時代の変化である。
宗達と光琳の、扱われ方の変遷の美術史と言ってもいい。それにしても、宗達が光琳に影響を与えたことは確かなのだが、宗達はあまりにも光琳と違うと古田氏は言う。宗達はダイナミック、光琳はスタティック。宗達は琳派かとあらためて問い直される。
その後の展開が素晴らしい。まず代表作『風神雷神図屏風』(第2章)にまっすぐに向かい、子細に眺める。細部の点検も面白いが、とくに、光琳、抱一の『風神雷神図屏風』と比べて、宗達だけが絵柄を画面から食み出させる、すなわち絵を断ち切りにする技法を意識的に用いているという指摘が鋭い。確かに宗達は動きを狙っている、画面を食み出す力がある、宗達は琳派ではない、と思わせる。
勢いのまま、宗達の「装飾性と平面性」(第3章)、「たっぷりした水墨」(第4章)、「動き出す絵画」(第5章)といった特色が、具体的に語られてゆく。いずれも説得力がある。その後に制作年代推定から「新たな宗達像」(第6章)が提示される。宗達学の大先達、山根有三の説に異を唱えるのである。『風神雷神図屏風』が壮年期で、『舞楽図屏風』は晩年という新説である。巧みな誘導で、読み進むとそうとしか思えなくなる。
光琳・抱一・其一を取り上げる「ポスト宗達派」(第7章)が続き、今村紫紅から梅原龍三郎にいたる宗達の影響を論じる「近代絵画と宗達」(第8章)、宗達における音楽性を重視してマチスと比べる「宗達vsマチス」(第9章)が続く。エピローグの「ジャズが響く」はその延長だが、特色としては第5章で挙げられた宗達と現代のマンガやアニメーションとの類似性のほうが強烈かもしれない。日本人の気質についてまで考えさせられる。
宗達の魅力を一般の読者に語りながら、絵画の見方の変化を見事に浮かび上がらせた優れた業績である。
三浦 雅士(文芸評論家)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)