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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2009年受賞

藤原 貞朗(ふじはら さだお)

『オリエンタリストの憂鬱 ―― 植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学』

(めこん)

1967年生まれ。
大阪大学大学院文学研究科博士後期課程退学(芸術学専攻)。リヨン第2大学第三課程でDEA取得(近現代史)。
大阪大学大学院文学研究科助手を経て、現在、茨城大学人文学部准教授。
著書:『美術史のスペクトルム』(共著、光琳社)
訳書:『潜在的イメージ』(ダリオ・ガンボーニ著、三元社)

『オリエンタリストの憂鬱 ―― 植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学』

 本文が500ページで、索引や註がさらに100ページつくという分厚い一冊である。そのなかに、1860年代から1940年代にいたるフランス人のカンボジア・アンコール遺跡の発見と調査と顕揚の歴史が、びっしりと書きこまれている。1967年生まれという著者藤原氏の、この東洋考古学の歴史を隅から隅まで踏破せずにはおかぬという若々しい知的好奇心、などという以上に知的馬力が全編に満ちている。
 著者は序章で、この書が「アンコール考古学史の歴史活劇として」読まれることを期待する旨述べているが、その期待は全うされた。学術史のはずでありながら、文章は明快にして雄弁、フランス帝国主義を背にしたオリエンタリストたちの「憂鬱」が彼ら自身の言葉と行動によって実にいきいきと語られてゆく。
 フランスがいまのベトナム、カンボジア、ラオスを保護国として「仏領インドシナ連邦」を築くのは1887年から93年にかけてのことだが、すでにその20年以上も前からこの地域の実質的な植民地化は進められていた。その先陣を切って1866年、メコン河流域の踏査に加わり、途上にアンコールの廃墟を目撃して、その神秘の美のとりことなったのが、ルイ・ドラポルトという当時シャム駐在のフランス海軍少尉であった。藤原氏の「歴史活劇」はこのアマチュア考古学者の冒険譚から始まる。
 ドラポルトはかならずしもクメール遺跡の最初の「発見」者ではなかったのだが、7年後に再度来訪して、建造物や彫像のかなり精密なスケッチを重ね、遺構の様式分析さえ試みて、アンコールの考古学的・美術史的解明の端緒をつけた。その上に彼は約70点にも及ぶ大小の彫像作品を現場から持ち出して、やがてクメール美術館を創設すべくパリに搬送したのである。この冒険家は植民地からの文化財奪取についてまだ「憂鬱」を知らず、新たなる保護者としての遺跡保全と作品回収の「使命」をさえ説いていた。
 以後、1889年にはドラポルト念願のインドシナ美術館が創立され、その約10年後にはサイゴンにフランス極東学院が創設されて、植民地の文化遺産の本格的な調査と研究と教育の活動が開始される。藤原氏はこの学院をめぐる東洋学者・考古学者たちの履歴と業績を克明にたどり、総督府支配と結びついたその政治性を見据えてゆくが、その筆致はけっして単純な告発調ではないのがよい。野心家アンドレ・マルローによるアンコールの盗掘事件などもそこにからんでくるが、さらに面白いのは、インドシナ現地の考古学者たちの調査報告と、本国(メトロポール)パリのギメ美術館に集結してその報告や資料を利用しながらも現場では構想しえぬ普遍的なアジア美術史・考古史を次々に発表していった1920年代の新東洋学のエリートたち、アッカンやグルセやステルヌらの壮麗な業績との間の、齟齬・対立、そして現地側の「憂鬱」の問題である。
 その「憂鬱」にもかかわらず極東学院の考古学的成果は大いにあがるが、それとともに大量の発掘品の販売というスキャンダルも広まった。さらに1931年にはパリの国際植民地博覧会におけるアンコール・ワットの精密な実物大復元という、フランス帝国主義の自画自讃と、後々まで残るオリエンタリストたちの最大の「憂鬱」。
 ここまで一気に読み進めてくれば、本書が日本帝国の朝鮮支配時代をも含めた、植民地考古学の功罪という近現代史のいまなお尖鋭な、そしてなんとも憂鬱な問題に、たじろぐことなく真向から、可能な限り公平明朗に攻めこんだ研究書であることを納得する。若い著者のこの勇気と力量とがさらにどの方向に展開するか。大いなる期待とともに見守ろう。

芳賀 徹(東京大学名誉教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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