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サントリー学芸賞

選評

政治・経済 2008年受賞

松田 宏一郎(まつだ こういちろう)

『江戸の知識から明治の政治へ』

(ぺりかん社)

1961年生まれ。
東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学(政治学専攻)。博士(法学)。
立教大学法学部助手などを経て、現在、立教大学法学部教授。
著書:『ミネルヴァ評伝選 陸羯南』(ミネルヴァ書房)

『江戸の知識から明治の政治へ』

 徳川体制から明治新政府への激しい政治変動期に、知識や思考力がいかなる意味で統治者の資質や政治指導に影響を与えたのか、そして江戸期日本の知的遺産が、明治以降いかに影響力を弱め、忘れ去られていったのか。本書は、こうした決着のつきにくい難問に正面から丁寧に取り組んだ力作だ。著者が取った手法は、統治のための人材の特質を語りつつ、西洋思想の受容と、受容側の知的・社会的状況を重ね合わせるという柔軟なアプローチである。
 本書から読み取れる注目すべき論点をいくつか示そう。教養が政治や行政の実務に役立つという考えに立つイギリスの伝統は、朱子学の理解度を昇進の基準とした徳川幕藩体制の人材選抜装置に通じるものがあった。内面重視の陽明学ではなく、朱子学のもつ政治世界における即物性を肯定した佐久間象山の「実学」思想は、学問の政治化に対して慎重であったという第2章の指摘は説得力がある。
 しかし本書の白眉は、第4章の福沢諭吉の「知」の分権論であろう。「知」のエリートの中央政府への一極集中がもたらす問題である。近年、「地方分権」を単なる権限の移譲と予算の独立性として論じる向きもあるが、この種の一面的な地方分権論の危うさは、すでに福沢が、そして福沢が多くを批判的に摂取したJ.S.ミルやトクヴィルが指摘した問題でもあった。現下の日本でも、地方議会、地方政府における人材の問題を論じることなしには、地方分権の健全な姿をイメージすることはできない。この点を、松田氏の文章は穏やかな口調で諭してくれる。
 トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第一部で、政治的集権と行政的集権の違いにこだわり、アメリカの行政システムがいかに専制的中央集権への傾斜を回避するようにデザインされているかについて多くの紙幅を割いた。administrationの多様性・自立性とgovernmentの一体性を、いかにバランスよく保持するかという点に、アメリカ民主政治の根本があると見たのである。福沢は、このトクヴィルの洞察を日本の問題として論じた。松田氏の筆は、福沢のgovernmentとadministrationの集権と分権の問題を、さらに正確かつ丁寧に解きほぐし、統治する側もされる側も、互いにその職分を尊重しなければならないという「職分」思想に基づく国家観が意識されていると指摘したのである。
 本書の後半部は、江戸後期から明治初期の知識人たちが、日本社会の歴史的条件や「伝統」として意識される思考習慣を、どのように特徴付けていたのかを検討している。「アジア」「文明」「封建」などの言葉が担わされた政治的な含意を、西洋思想の概念枠組みにとらわれることなく、さりとて「特殊日本的」という言葉に逃げ込むこともなく、ただ淡々と論じている。
 本書は、早急に結論を求める読者を苛立たせるかもしれない。しかし著者の用いた手法の独創性は、文字通り博引傍証のスタイルで自らの考えを反芻しつつ暗い坑道を掘り進むという、健全な懐疑と粘り強い思考から生まれたものだ。その姿勢には、多くの学問分野で失われつつある研究者の品位と知的廉直さが感じられ、大いに好感を持った。
 さらに松田氏に論じてほしいと評者が願うことは、統治に当たる者の「思想」と「性格」の区別という問題であろう。『丁丑公論』で、西南戦争で自死した西郷隆盛を強く擁護した福沢が、それでも西郷の「不学」に触れざるを得なかったことに、統治やリーダーシップにおける「思想」と「性格」の関係の複雑さがあると思うからだ。

猪木 武徳(国際日本文化研究センター所長)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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