選評
芸術・文学 2008年受賞
『藤田嗣治 作品をひらく ―― 旅・手仕事・日本』
(名古屋大学出版会)
1965年生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(美術史学専攻)。
パリ第一大学博士号取得。
東京都現代美術館学芸員などを経て、現在、京都造形芸術大学准教授。
論文:「藤田嗣治-日本が生み、パリが育てた『多文化』の画家」(『近代日本と仏蘭西』所収)
2006年6月、京都で二日間にわたって、「パリ・1920年代・藤田嗣治」という国際シンポジウムが催されたことがあった。同時期に東京と京都の国立近代美術館で、藤田の没後初めてといってよい大規模な回顧展が開かれており、それに呼応して企画されたシンポジウムであった(これの組織と運営の実務を担当したのが、本書の著者林洋子氏であった)。私自身も聴衆の一人として、この二日間に参加した。
日仏両国から近現代美術研究第一線の専門家たちが結集して行われた報告と討議は、まことに充実して刺激に富んだものだったが、その最後の総括のときのフランソワーズ・ルヴァイヤン教授の発言が、私には忘れられない。ルヴァイヤン女史といえば20世紀ヨーロッパ美術史研究の大ヴェテランであり、林氏のフジタ研究の指導教官でもあったはずの人だが、その女史がこう漏らしたのである。--「フランスの美術史学界では、長い間、フジタを研究することにいつも一種の〈居心地の悪さ〉(マレーズ)がつきまとっていた」と。
林洋子氏が本書のなかで「藤田研究と言う難問」と呼んでいるのが、まさにこの「居心地の悪さ」に当るものでもあるだろう。画家藤田の活動の場が、1920年代の「エコール・ド・パリ」以来のフランスを中心とはしながらも、北米・中南米にも大きな足跡を残して画風の転換を経験し、第二次大戦の戦前戦中の日本では東京のみならず沖縄から秋田にまで及んで旺盛な制作を示したこと。つまり半世紀余りの間に三つないし四つの文明圏を渡り歩いて画業をなしとげたことは、ヨーロッパ側からのみの視点ではとうていおおいつくせない「具合の悪さ」、「難問」を突きつけるものであったろう。
その上に、藤田にはパリ時代から半ばは自作自演のスキャンダルも多かったし、日本でも戦前には売国奴のごとく扱われたり、戦後には「戦争画」制作の代表責任を押しつけられたりという不愉快が度重なった。それらはみな、研究者にも、時代環境と画家の心理の両方の襞に立ち入ることを強いる難問であった。藤田はこの活動空間の広大と時代の波瀾のなかを貫いて、実は驚くほど勤勉に画業に打ちこみ、たえず画法に工夫を重ねたことを、私たちは本書によって知り、はじめてその全貌を眺めることができるのだが、その間にも彼の作品の質の浮沈に当惑することはあり、さらにその画業の利用と引用に対する未亡人からのきびしい規制という超難問も長い間これに加わっていた。
著者林氏は当然これらの「居心地の悪さ」を自覚しながらも、それゆえに一層の熱意を燃やして、15年余にわたって藤田作品とその技法の周到な調査を進め、一次・二次資料や先行研究の博捜を行ってきた。そしてなによりも、東西の異文化間での、また表現技法やジャンルの間での、たえざる越境者であり超越者であった藤田嗣治という日本人先達へのみずからの熱い共感によって、「難問」の一つ一つを克服し、ほぼ全面的にこれを解決した(『アッツ島玉砕』他の記念碑的な戦争画については、さらに自由で立ち入った解釈を望みたい気持は残るにしても)。それが600頁に近いこのたびの大著である。
実は藤田自身も一生涯、どこにいても「居心地の悪さ」を感じつづけていたのかもしれない。だがそれこそが、結局は、82年の彼の越境者かつ愛国者としての生涯の、豊麗な創造の原動力となっていたのであろう。そのことを「作品をひらく」との題名のとおり、藤田の作品一つ一つに即して明らかにしていった本書は、まさに力わざといってよい。サントリー学芸賞にふさわしく文章は明快。半世紀前のパリで中学同窓の先輩として知った藤田画伯晩年の白髪と満面の笑みを思いおこしつつ、本書を広く読書界に推輓するものである。
芳賀 徹(東京大学名誉教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)