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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2007年受賞

山本 淳子(やまもと じゅんこ)

『源氏物語の時代 ―― 一条天皇と后たちのものがたり』

(朝日新聞社)

1960年生まれ。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了(文化・地域環境学専攻)。博士(人間・環境学)。
石川県立図書館、石川県立金沢辰己丘高等学校国語科教諭などを経て、現在、京都学園大学准教授。
著書:『紫式部集論』(和泉書院)など。

『源氏物語の時代 ―― 一条天皇と后たちのものがたり』

 来年、2008年は『源氏物語』が書かれてちょうど一千年というので、それを記念する行事が京都と東京ですでにさまざまに企画されている。山本淳子氏のこの受賞作でも終りに近いところに引かれている『紫式部日記』の寛弘5年(1008)11月1日の条、それがこの「源氏物語千年紀」の典拠となっている。
 その日、宮中では、一条天皇とその二人目の中宮で藤原道長の娘彰子との間にようやく生まれた子供敦成(のちの後一条天皇)の誕生五十日を祝って、盛大な宴が催された。大勢の公卿が招かれて宴が進み、酔いもまわって席が彰子の御簾近くに控える女房たちのところに移されてやや乱れ始めたころ、中納言藤原公任がそこに姿をあらわし、紫式部のほうに目をやりながら「失礼。このあたりに『若紫』さんはお控えかな」と声をかけたというのだ。
 藤原公任といえば、王朝文化が絶頂を極めていた一条帝時代にあっても、飛びきりの才子、第一級の知識人。だが紫式部は、自分の物語の大切な女主人公紫の上をこんなふうに酒の肴にされたのが心外だった。「光源氏に似た殿方も目に付かないのに若紫がいるもんですか」と、公任の呼びかけを無視した、というのが著者山本さんの解釈である。
 実に面白い。これで『源氏物語』の何帖かが当時すでに書き終えられ、宮廷内で評判にもなっていたことが確証されるのだが、著者はこの『紫式部日記』や道長の『御堂関白記』はもちろんのこと、藤原実資の『小右記』、一条帝の最もよき忠臣で書の三蹟の一人でもあった藤原行成の『権記』など同時代の日記類、それに同じ一条帝の中宮定子に仕えた清少納言の『枕草子』、赤染衛門の筆とも伝えられる『栄花物語』、また『大鏡』などの文学作品をも、自由自在に、まさに適材適所に、しかもすべて著者自身の現代語訳つきで使いこなして、一条帝在位二十五年間(986~1011)の宮廷の生活と文化の歴史をいきいきとよみがえらせてゆく。『源氏』千年紀を前にして私たちが待ち望んでいたのは、まさにこのような卓抜な啓蒙の一書であった。
 先帝花山天皇の突然の出奔から話は始まり、そのあとをうけて一条天皇が即位したのは数えでわずか七歳のとき。摂政藤原道隆の娘定子を中宮に迎えたのは元服してすぐの十一歳のときだった。一条帝は三歳年上で従姉にあたるこの妻、高貴で優雅で明朗でしかも知性と教養をたっぷりと身につけた美貌の定子に、やがて心底からの「純愛」をささげたと著者は言う。その闊達な後宮の生活は『枕草子』などを巧みに使って描かれるが、この「清涼殿の春」は長くはつづかなかった。定子は父を失い、実家の兄弟たち(伊周、隆家)の権勢からの失墜にも遭って、運命がにわかに暗転するなかにも、一条の愛をうけて三人の子を生んで死ぬ。
 最愛の妻の宿命に苦悩しながら、急速に上昇する道長の勢力にも賢く対応する一条帝の孤独。幼くしてこの「叡哲欽明」の帝のもとに入内し、彼の心のうちをよく察しては、女房となった紫式部に漢詩を学び、式部とともに『源氏物語』を美しい冊子に仕立てて帝に贈り、ひたすら夫に寄りそってゆこうとする中宮彰子のけなげさ。それらを山本女史は「資料に耳を澄ますこと」によって、まことに情感深く語りつくした。一千年前の平安京の一隅にいとなまれた貴族文化の洗練と、その貴族たちの生活のなまなましさが、生彩ある叙述によってここによみがえった。そして紫式部も実はこの一条朝のただなかに生きることによってこそ、あの物語の伝える人間性洞察の鋭さ、「もののあはれ」の自覚の深さを得たのだろう、と著者は言う。
 読む者を魅了してやまない才媛の書である。

芳賀 徹(京都造形芸術大学名誉学長)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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