選評
思想・歴史 2006年受賞
『日本の科学/技術はどこへいくのか』を中心として
(岩波書店)
1956年、東京都生まれ。
東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得満期退学
青山学院女子短期大学非常勤講師、東京大学先端科学技術研究センター助手などを経る。
著書:『ロバート・フック ―― ニュートンに消された男』(朝日新聞社)、『ロバート・フック』(朝倉書店)など。
科学論、科学哲学を専門とする研究者は、大学という機関のなかではたぶんそう居心地のよいものではない。科学史という地道な歴史研究ならまだしも、現在の科学技術の現場に踏み込んで、そのあり方、とくに社会との関係について議論を仕掛けると、現場の研究者には足を引っ張る輩に映ってしまう。あなた方とはちがってこちらは世界を相手に熾烈な研究開発競争の前線にいるのだ、科学技術の発展は将来の人類社会の幸福に直接つながるものであって、その活用は行政や企業がそれぞれに取り組むであろうが、基礎研究や技術開発そのものはそれとして着実に進めなければならず、外側から妙な足かせをはめるのは迷惑だ、というふうに。
一方、背後では、薬害訴訟、原発の事故隠し、地下鉄サリン事件、牛海綿状脳症(BSE)問題、輸入食品の農薬汚染、インターネットでの個人情報流出といった事件があり、地球温暖化問題や遺伝子組み換え食品の安全性という問題があり、さらに先端医療における生命操作を倫理的に危ぶむ声、論文捏造やデータ改竄の続出にはあきれ声もあがる。現代生活に多大な恩恵をもたらしたはずの科学技術はいま、市民の日常生活の至近距離で、こうした問題を抱え込むにいたっている。なのに、科学研究がどのようないとなみなのか、科学技術にいま何が起こっているのか、その実際は市民には正確に知られていない。知られぬまま若い世代の理科離れは静かに進み、いずれ人材不足も深刻な問題となりそうだ。その多くがかつて「科学少年」だった科学論・科学哲学の研究者たちは、科学技術の「暴走」を憂うそういう声に、こんどは科学の側からきちんと答えなければならない。いっしょに「糾弾」して済むという問題ではないのである。
科学/技術はいま一種のバブル状態にあり、ひとびとはそれによる成果はたっぷり享受しながら、同時にその急速な動きに不信を抱いている……。これまで科学技術史の光と影を丹念に読み解いてきた中島氏は、当の科学/技術の従事者ですら掴みあぐねている科学/技術の実態に踏み込んで、そうした奇妙な構図の一つ一つを冷静に焙りだしてゆく。研究そのものに充足していた科学から、「社会に開かれた」科学への、とはいえ実のところは国家や産業のミッション(市場原理)に過剰なまでに浸蝕された科学への大きな転換、それを多角的に読み解いてゆく。が、そうした構図のただなかで、その語りは著者の立つ位置からして捻れたものとならざるをえない。「科学の夢」にふれたそのすぐあとで「科学の終焉」にふれざるをえず、科学研究に要する果てしのない時間にふれつつ「理科系」という幻想の解体を叫ばずにはいない。基礎研究の重層性に眼をとめながら科学のシビリアンコントロールを説かざるをえない。研究の創造性に期待しながら、同時に若手研究者の「使い捨て」の境遇について社会技術的にきちんと論じないといけない……。
科学/技術の進歩が理想的な社会を生みだすという幻想はもう通用しない。「一般社会の誰もが科学技術の利害当事者になった」現代社会において、科学/技術の「正しいガバナンス」がもとめられている。では、そのガバナンスは何を規準に図られるべきか。その方向は、市場ではなく、科学者・技術者と市民との公共的な討議のなかで模索されるしかないと著者はいう。そのためには「媒介の専門家」の養成が急務だ、と。科学者・技術者も市民も、正負の過剰な反応をくり返している場合ではないのである。
鷲田 清一(大阪大学副学長)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)