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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2006年受賞

竹内 一郎(たけうち いちろう)

『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』

(講談社)

1956年生まれ。
横浜国立大学教育学部心理科卒業。
大学卒業後、劇作家・演出家として活動。この間、九州大谷短期大学助教授、東京工芸大学非常勤講師などを務め、筆名さいふうめいとして発表。
著書:『人は見た目が9割』(新潮社)、『フィリピンの民話』(翻訳、青土社)など。

『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』

 日本のストーリーマンガはいまや全世界に浸透しつつある。ストーリーマンガを刊行している出版社は、次々に訪れるアジア、アメリカ、ヨーロッパからの翻訳出版交渉への応接に暇がないと聞く。児童向けはもとより、十代、二十代の読者に向けたものまで、ストーリーマンガの領域は幅広いが、そのいずれも世界的に強い関心を集めているのである。
 むろん世界だけではない。事情は国内においてさらに顕著であって、昨今の映画やテレビドラマの原作の多くはストーリーマンガである。また、よしもとばなな以降、登場する新人小説家の多くが、直接間接にストーリーマンガの影響を受けている。かつては安保世代、全共闘世代などという言葉で世代をくくり、それがまた確かに世代の特徴を示してもいたが、いまはおそらく、十代にどんなストーリーマンガを読んだかによって世代をくくったほうが適切でさえあるだろう。
 なぜ、ほかならぬ日本においてストーリーマンガがこれほど隆盛したのか。若き手塚治虫は「これは漫画にも非ず、小説にも非ず」といったというが、ストーリーマンガが絵であると同時に文字であるという事実をじつに適切に語っている。表意文字と表音文字を組み合わせることによって成り立っている日本語は、いってみれば、ストーリーマンガの源泉なのだ。日本語は視覚と聴覚をともに刺激しつづける言語なのであり、その土壌からは、ヘンタイ少女文字であれ、携帯電話の絵文字であれ、一押しすればマンガに移行しそうな文化が簡単に生まれてくるようにできているのである。まさに日本語の富だ。
 かくしてこの半世紀、日本の文化はストーリーマンガによって益するところきわめて大であったのだが、にもかかわらずマンガ評論はまことに乏しい。あっても、安保世代、全共闘世代というような意識でマンガを論じるものばかりだった。自由民権の闘士が浮世絵を論じているようなものだ。事態は、海外に流出することによってはじめて浮世絵の価値に気づいた明治時代にどこか似ているのである。
 竹内一郎氏の『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』は、その渇きを一挙に癒してくれる快著である。
 その功績の第一は、マンガ評論の基軸を提示したことである。それも二つの意味で提示している。なぜ手塚治虫がマンガ評論の原点になるかといえば、岡本一平、田川水泡、北澤楽天、宮尾しげをといった戦前マンガの担い手の業績がすべて一度は手塚治虫へと流れ込み、その手塚治虫から戦後マンガ、現代のストーリーマンガの担い手たちが登場したと考えることが、おおよそできるからである。いささか強引にいえば、手塚治虫は砂時計の首の位置にあるわけだ。これによって、歴史的俯瞰がきわめて容易になった。
 もうひとつは、マンガの絵の分析、コマ割りの分析において、手塚治虫の実験、工夫は、それがきわめて広範かつ大胆に行なわれているために、他を論ずる場合のひとつの規範になりうるからだ。竹内氏は、手塚治虫をひとつのモデルにして、文学でいえば文体論にあたるものが、マンガにおいていかにして可能であるかを示している。
 功績の第二は、手塚治虫論そのものとして秀逸であること。手塚治虫が何をしたのか、どこが偉かったのか、まことによく腑に落ちる。説明はきわめて論理的で、たとえば手塚治虫がいかに巧みに映画の手法を取り入れたかの説明など、まさに水際立っている。
 そして、これを功績の第三とすべきと思うのだが、手塚治虫以後については意図的に語っていないために、この方法で、松本零士、萩尾望都など、手塚治虫以後のマンガ家を論じる評論家が登場することを強く促していることである。
 最後に、第四の功績としてサントリー学芸賞を受賞したこと。サントリー学芸賞の幅がまたひとつ広がったことを心から喜びたい。

三浦 雅士(文芸評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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