選評
政治・経済 2005年受賞
『戦後アジア秩序の模索と日本 ―― 「海のアジア」の戦後史 1957~1966』
(創文社)
1968年、東京都生まれ。
一橋大学大学院法学研究科博士後期課程修了。
立教大学法学部卒業後、NHKで記者を勤めたのち、一橋大学大学院に入学。日本学術振興会特別研究員、立教大学法学部助手などを経て、現在、北海道大学大学院法学研究科専任講師。
著書:『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社)など。
「日本の技術や経済力と、インドネシアの豊富な天然資源を結びつけ、両国の共存共栄をはかっていこうというのが対インドネシア外交の基調であり、このことは時の政権と関係なく、今後も不変である。」スカルノが中国共産党寄りに偏した時にも、パイプを保ち続ける姿勢を崩さなかった川島正次郎の本書に引かれている言葉である。 戦後日本は、吉田茂によって、日米同盟と軽軍備、そして自由貿易体制下で経済国家として再発展する道を選択した。しかしサンフランシスコ講和条約と日米安保条約を結べば、経済国家としての発展が約束されるというわけではない。いくつもの隘路があり、いくつも耕さねばならない荒地があった。米国から技術を導入して品質を高めようと腐心したが、54年に訪米した吉田首相はダレス国務長官から、日本商品の水準では米国市場に食い込むのは難しい、東南アジア市場の開拓に努めてはどうか、と言われる状態だった。米欧市場とブレトンウッズの国際諸機関への参加が、日本の世界的な経済活動に不可欠であったが、もう一つどうしても必要だったのが、アジアに経済地平を拡大することであった。といってもアジア最大の市場であった中国は共産化によってアクセス困難となった。東南アジアしかない。1950年代から60年代にかけて、経済国家としての再興を図る戦後日本は、心から「アジアの一員」になるには戦争と「大東亜共栄圏」の過去が生々し過ぎるにせよ、せめて相互利益の打算から東南アジアと日本を結び合わせねばならなかった。
そうした時期の経済的南進の研究が、外交文書公開にも支えられ、若い外交史家たちの間で近年ブームとなっている。本書はその流れの中から生れた魅力ある好著である。同じ著者の前作『バンドン会議と日本のアジア復帰』もアメリカとアジアの間に揺れる日本のアイデンティティを描いた好著であった。本書はさらに重要な歴史的意味を帯びた局面を、日米英をはじめ利用可能となったばかりの各国外交文書を用いて解明する研究である。
おわびでスピーチを始める日本人らしく、戦後日本は賠償支払によって東南アジアとの関与を再開した。戦災のレベルにより、フィリピン・インドネシア・ビルマに対し、4:2:1の賠償額を予定していたにも拘わらず、岸首相は首脳会談での即決により、フィリピンと同額をインドネシアに供与する跳躍をして見せたという。そうまでして結んだ契りであったが、スカルノのリーダーシップには問題が多かった。脱植民地闘争の旗手としてナショナリズム動員を好み、それがマレーシアへの敵対軍事行動に向うと、英国は重大な脅威と認定した。スカルノの新興国ナショナリズムが共産中国との提携と国内の共産党育成に傾くと、アメリカはこれに見切りをつけ、CIAによる反スカルノ工作さえ実施した。
そうした中、日本はスカルノへの支援を続けた。それにより左傾を止めることは出来なかったが、打ち切りが対中傾斜を決定的にすることを惧れた。そして実は心中信じていた、インドネシアが求めるものは共産主義ではない、民族主義なのだと。この日本の姿勢に批判的であった米英とも、やがて日本のみがインドネシアをつなぎとめ得る国と認めるようになる。そしてスハルトに率いられた陸軍が起ち、凄惨な九・三〇事件により共産党とスカルノを撃破した。スハルトとともに経済開発の時代が誕生した。
本書はこの南海のドラマを、日本が経済地平の拡大に成功した事蹟として描くだけでなく、インドネシアと取り巻く国々が「冷戦・革命・脱植民地化・開発」の諸論理をもって切り結んだ国際関係として描いている。そうであれば、それは「戦後アジア秩序」形成のドラマでもある。ベトナム戦争が進行する傍らで、「開発」主義を基軸とする地域を作り上げる日本外交の営為を探りあてた研究として、本書は注目されるのである。
五百旗頭 真(神戸大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)