選評
芸術・文学 2005年受賞
『カラヴァッジョ ―― 聖性とヴィジョン』
(名古屋大学出版会)
1963年、愛知県生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修了。
兵庫県立近代美術館学芸員、東京都現代美術館学芸員を経て、現在、神戸大学文学部助教授。
著書:『バロック美術の成立』(山川出版社)、『ティエポロ』(トレヴィル)など。
緻密な学術的労作だが、覚える感興はまさに小説のそれである。あるときは冒険小説、あるときは推理小説を読んでいるような気分にさせられる。むろんカラヴァッジョといえば素行が悪く殺人まで犯した「呪われた画家」。そのモノグラフならば面白くて当然だが、しかし宮下規久朗氏のこの労作は伝記ではない。年代順に追ってはいるが基本的に作品論である。興奮させられるのは、あくまでも絵画の分析によってであって、画家の素行によってではない。同時代の絵画、同時代の状況からカラヴァッジョの作品が生み出されてゆくその分析が素晴らしいのだ。
とりわけ圧倒されるのは絵画の演劇性。カラヴァッジョといえば光、光といえば瞬間。そして瞬間は、常識とは逆に、つねに持続すなわち文脈を示唆する。ロベルト・ロンギがカラヴァッジョと映画を関連させたのはしたがって必然だが、しかし宮下氏の労作がカラヴァッジョの演劇性を示唆するのは必ずしも同じ理由によってではない。何よりもまず場の分析、すなわちその絵がいつどこにどのように置かれるべく描かれたのかという分析によってである。たとえば『聖パウロの回心』の、ほとんど馬の胴体だけが目立つ不思議な構図は、それが礼拝堂のどの位置にどのように掲げられていたか ―― 光の差し込み方と見るものの視線の向き ―― を知ることによってはじめて意味をもつというのだ。
とりわけ息を呑ませられるのは『ロレートの聖母』。拝跪する貧しい巡礼の親子を戸口に出て優しく眺めおろす聖母子は、戸口がまるで額縁のようになっていてまさに絵画のなかの絵画なのだが、それを宮下氏は、奇跡の地ロレートにおける巡礼のありようを復元することによって、「つまりこの画面には、巡礼のいる現実の聖域の空間と、巡礼の幻視の空間というふたつの異なるレベルの空間が共存しているのである」と喝破する。聖堂そのものが劇場に等しかったというだけではない。聖書の絵解きのような絵画は当時のイタリアに溢れていた。カラヴァッジョの空間が本質的に劇場空間であるのは、描かれた人物たちが基本的に役者に等しいということなのである。『ロレートの聖母』が劇中劇であるのは、絵画がまず劇であり、見るものが自分もまたそこに描かれうることを知りえたからである。バロック絵画において画家は何よりもまず演出家だったのだ。背景、衣装、照明、そして配役。カラヴァッジョはしばしば自身を、また自身の愛した少年をモデルとして絵のなかに描きこんだが、その意味は熟考に値する。
演劇性を軸にカラヴァッジョを読み解いてゆくこの手法は、文字通り「カラヴァッジョの身振り」と題された第6章で最大の力を発揮する。身振りは舞踊と演劇の基軸。ボニファッチョの『身振り術』をはじめとする貴重な文献を博捜して、いまなお謎とされる『聖マタイの召命』の誰がマタイなのか解明する箇所は本書の白眉。やはり謎とされる『パレルモの生誕』の制作時期も同じ手法によって解明されてゆく。
イタリア語はもとより、英語、ドイツ語、フランス語の膨大な文献を渉猟しながら ―― 四分の一が文献と註である ――、しかし記述の軸に置かれているのはあくまでも著者自身の体験、その絵をじかに見たという体験である。すなわち絵画がつねに劇場体験として捉えられているのだ。
カラヴァッジョは1571年生まれ。その4年前にモンテヴェルディが生まれている。前者は近代絵画の祖、後者は近代音楽の祖。いずれも俗によって聖を演ずることを本格的にはじめた存在である。カラヴァッジョの生が、オペラの誕生、バレエの誕生と重なり合っているのは偶然ではない。宮下氏のモノグラフがそういうことを考えさせずにおかないのは、演劇的とでもいうべきその手法がまさに当を得たものにほかならなかったからだろう。探求が領域を超えてこれからさらに深まってゆくことは疑いないと思える。
三浦 雅士(文芸評論家)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)