選評
芸術・文学 2005年受賞
『アメリカン・ナルシス ―― メルヴィルからミルハウザーまで』
(東京大学出版会)
1954年、東京都生まれ。
東京大学大学院人文社会研究科博士課程単位取得退学。
東京学芸大学助教授、東京大学教養学部助教授などを経て、現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。
著書:『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』(編訳書、アルク)、『アメリカ文学のレッスン』(講談社)、『愛の見切り発車』(新潮社)など。
どちらかといえば「新人賞」的な色合いの強い、このサントリー学芸賞に柴田元幸という名前が今更のように出てくることに驚かれる方も多いだろう。柴田さんといえば、現代アメリカ文学の翻訳を次々と出版し、その名前を目にしない日はないと言ってもいいくらいであるから、「今更」と思われるのも無理はない。実際、旺盛な(というようなありきたりな形容ではすまない)翻訳活動の合間を縫って出された『愛の見切り発車』(1997)、『アメリカ文学のレッスン』(2000)などの著書が本賞の選考委員会で話題になったことも多いのだが、いやしくも「学芸賞」となると、一冊の本としてのまとまりや構成が問われることになり、どちらかといえばアトランダムにフットワークも軽く論を進めてゆくタイプの柴田さんの文章の特徴が災いし、これまでは受賞にいたらなかった。その柴田さんがアメリカ文学史を正面から論じる「本格派」として登場し、文句なしの受賞となった。
現代物に異才を発揮するいつもの柴田さんとは違って、本書前半では、メルヴィル、ポオ、トウェインなど19世紀の作家が俎上にあげられる。これらはいずれも1980年代に書かれたものをもとにしており、いずれも紀要などに掲載された本格的な論文スタイルのものである。それに対し後半は、エリクソン、カーヴァーなど、現代物を題材にした「いつもの柴田さん」の延長上にあるもので、書かれた時期も比較的最近のものが多い。両者を並べてみると、現代物の世界を縦横無尽に駆け回っているようにみえる柴田さんを支えるベースにこのような歴史研究の蓄積があったのかとあらためて思い知らされもするのだが、この両者が見事に一つの世界を形作っていることには驚く。その背後にあるテーゼを大雑把にまとめれば、アメリカ文学史は、ヨーロッパ文化を支えてきた「神」の退席、不在ということから出発し、そうであるがゆえに不可避的に前面に出てくる「私」への問いや探求、肯定や否定、相対化といった様々な要素が時にせめぎあい、時に表裏一体となりながら展開してきた自己表象の歴史だった、ということになろうか。
本書の各章がこれだけ長期間にわたって書かれていながら、そのような線上で一つにつながるさまは見事という他はない。あまりに見事すぎて、これはいささかアヤシイのではないかなどと思いたくもなるのだが、そのような骨太の筋は、文学論のレベルをこえて実に卓抜なアメリカ文化論にもなっている。
本書の第7章は「アメリカ文学と帝国主義」と題されており、フランクリンの自伝という意表をつく切り口から出発したその議論の中では、アメリカ文化の「私」への執着が今度は他文化や自己の内なる「他者」にどのように向けられるかという観点から刺激的な議論がなされているが、これはそのまま、カルチュラル・スタディーズ的なアメリカ言説研究の最新の成果にもなりえよう。そのような骨太な内容をもつものでありながら文章は軽妙で、私のような門外漢をも引き込んで読ませてしまうからさすがである。最近の文化論は考え方自体が七面倒くさく、私の文章などもどんどん読者に背を向けた晦渋なものになってしまいがちなのだが、柴田さんのような文章を見せつけられると、同じ分野でなくてよかったとつくづく思ってしまう。さらに磨きのかかった文章で、これからもまた新たな視界が鮮やかにひらけるような体験をさせてもらえることを期待したい。
渡辺 裕(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)