サントリー文化財団

menu

サントリー文化財団トップ > サントリー学芸賞 > 受賞者一覧・選評 > 田中 純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 2002年受賞

田中 純(たなか じゅん)

『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

(青土社)

1960年、宮城県仙台市生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。
ドイツ学術交流会奨学金により、ケルン大学に留学。
東京大学教養学部助手、専任講師を経て、現在、同大学院情報学環助教授。
著書:『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』(彰国社)、『都市表象分析Ⅰ』(INAX出版)、『残像のなかの建築』(未來社)など。

『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

 のちにヨーロッパ文化史・図像史研究のメッカとなるヴァールブルク図書館を莫大な私財を投げうって設立し、自身は、精神の錯乱と透徹した知がせめぎあうなかでヨーロッパ美術史から占星術や古代儀礼まで、常人には思いつかぬ緻密かつ豊かな着想で研究プロジェクトを推進したアビ・ヴァールブルク。狂気と知が織りなすその思想と生涯を、膨大な文献を渉猟し、ウォーバーグ研究所の文庫に所蔵された手稿や書簡をも解読しながら、新たな視点で描ききった作品がこれである。
 新たな視点でというのは、ウォーバーグ研究所所蔵の第一次資料を駆使して書かれた、現在のところヴァールブルク研究としては最大の業績であるエルンスト・H・ゴンブリッチによる詳細な伝記『アビ・ヴァールブルク伝』、その知的生涯に限られた叙述がヴァールブルクの思考が深く孕む分裂や錯乱との対峙を回避したところで成り立っていると批判し、それを全面的に書き換えるという意志に、この研究は貫かれているからである。
 ヴァールブルクの思想的生涯において、精神の錯乱はそのヨーロッパ文化史研究と深く絡みあっている。錯乱の一因となった彼の精神の過剰なまでの両極性――ユダヤ人とドイツ人、古代の記憶表象・異教の形象とヨーロッパの近代文化、あるいは魔術と論理、像と言葉、象徴的思考と啓蒙――、それが「ルネサンス以降のヨーロッパにおける古代の、いわば反復強迫にも似た現象」と重なりあうものとして彼を襲ったからである。したがってヴァールブルクの思考をたどることは、「ヴァールブルクの受苦的身体という舞台において、文化の記憶が根源的に孕む錯乱を解読する営みにならざるをえない」、と田中氏はいう。ヴァールブルクにおいてはヨーロッパ文化史研究が自伝的叙述とオーバーラップしてくる。狂気というものを鏡として映しだされるほかないヨーロッパ文化史のパトスもしくは強迫観念といったものがある、というわけだ。
 こうして氏は、初期ルネサンス美術の研究から記憶の女神ムネモシュネの名を冠した図像研究のプロジェクト(占星術と情念定型の図像群の分析)まで、ヴァールブルクの格闘の跡を綿密にたどる。ベンヤミン『パサージュ論』における「星位」(コンステラツィオーン)の概念やゲーテや三木成夫の形態学(とくに後者の「おもかげ」という観念)、はたまた現代の「視覚人類学」者ジョルジュ・ディディ・ユベルマンによるイコノロジー批判への共感などを随所にのぞかせながら。そしてそれを、イメージによる情念の論理学(病理学)ないしはイメージによる歴史認識の方法の可能性を遠望できる地点へまでつないでゆく。
 「都市という夢に酩酊する危険を冒さぬかぎり、形象との遭遇など望むべくもないのだ」という、前著『都市表象分析Ⅰ』での想いが、錯乱のこの肖像に酩酊する危険を冒さぬかぎり……という想いとなって、ここでも氏の仕事を突き上げている。

鷲田 清一(大阪大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

サントリー文化財団