選評
社会・風俗 2002年受賞
『日本の夢信仰 ―― 宗教学から見た日本精神史』
(玉川大学出版部)
1954年、東京都武蔵野市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。
国立東京工業高等専門学校専任講師、助教授、教授を経て、現在、立教大学コミュニティ福祉学部助教授。
論文:「創成神話とユングの元型論」(『創成神話の研究』所収)、「ユングの思想と宗教心理学」(『宗教心理の探究』所収)など。
夢――この言葉は、叶えたい願望、憧れの世界などを示し、不可思議で神秘的な魅惑をもって人の心をときめかせる。また、人間であれば誰しも、眠っている間に何らかの夢を見たことがあるはずである。だが、かくも身近なものでありながら、その正体は漠としてつかみどころがない。本書はこうした、古今東西の人間に深く関わってきた夢のあり方を、日本の古典文学に現れた夢の分析を通じてさぐった労作である。対象とされている時代は広範囲にわたり、『古事記』『日本書紀』『万葉集』といった上代文学から、『蜻蛉日記』『更級日記』『源氏物語』などにおける王朝人の夢、『日本霊異記』『今昔物語』をはじめとする仏教説話の夢、『平家物語』『太平記』等にみられる武士の夢、さらには、仮名草子、浮世草子といった江戸文芸の描く夢にまで至る。
同じモチーフを歴史を通じて比較することで、時代別に専門化されがちな文学研究に通史的なパースペクティブを与えるという視点が本書の重要な意義であるが、それは単に夢という個別の現象の分析にとどまるものではなく、夢を通じてその時代時代の人々の価値観や心性そのものが浮かび上がっている点が重要である。神々や、遠く離れた魂と交感する経験、あるいは、観音の霊験などの恩寵を受ける機会としてとらえられた古代の夢には、夢を通じて聖なるものに接する「夢信仰」ともいうべき感性があった。その「信仰」は、生死を賭ける職務を遂行する武士の世界にも継承されつつ、より現実的な判断力を重視する価値観から衰退を余儀なくされ、やがて江戸文芸の中で世俗化、娯楽化されてゆく。こうした夢の変遷の背後には、人間と聖なるものとの関わりの変容という大きな精神史の流れ、宗教的感性の変化が横たわっていることを、本書は明らかにする。それはまた、王朝貴族、武士、江戸の町人といったそれぞれの時代を生きた人々の心性の相違を映す鏡となっているのである。
夢からの積極的な脱却を志向する仏教本来の無常観が、はかなさに価値を置く日本的な無常の美学として成熟したという指摘は、夢を通じた一種の日本文化論ともなっている。中国や古代ギリシア等の夢との比較文化的な視点も随所に取り入れられ、フロイトを始めとする精神分析学的な方法ももちろん視野に入れながら、性的次元にすべてを還元する立場にとりこまれることなく、あくまでも文化史的背景をふまえた上で夢を議論しようとする。個々の考察においては、先行研究の知見に負うところも少なくないが、「夢」ではなく「夢信仰」という明確な問題設定をしたことで、本書は、夢にまつわるあまたの書物のなかでも、夢という切り口を通したユニークな日本の心性史、文化史となり得ている。
およそ賞にふさわしい書物というものには、それにふさわしい努力と才気、そして、その結果としてにじみ出る全体としての品格が求められよう。己を省みても、この三拍子が揃った著作というものはそう簡単に生み出せるものではないが、本書においては、"個人編集夢事典"ともいうべき労力と、全体から漲る誠実な研究姿勢を何よりも評価したい。
佐伯 順子(同志社大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)