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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2002年受賞

小谷野 敦(こやの あつし)

『聖母のいない国 ―― The North American Novel』

(青土社)

1962年、茨城県水海道市生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
大阪大学言語文化部専任講師、同助教授を経て、現在、東京大学非常勤講師、明治大学兼任講師を勤めながら、文筆活動に携わる。
著書:『〈男の恋〉の文学史』(朝日新聞社)、『もてない男』(筑摩書房)、『退屈論』(弘文堂)など。

『聖母のいない国 ―― The North American Novel』

 本書は、"The North American Novel"という副題が示す通り、『風と共に去りぬ』から『赤毛のアン』にいたるアメリカ、カナダの小説13篇を取り上げて、さまざまの視点から論じた文芸批評の力作である。ただしそれは、文学史の流れを辿るとか、作家の評伝を連ねるといった型にはまったものではなく、また、テクスト分析やフェミニスム論などのひとつの方法論で対象を裁断しようというものでもない。著者は、それぞれの作品について、重要な先行研究には眼配りを怠らず、最新の文学理論にも鋭敏な触覚を働かせるという基本的な手続きを踏みながら、対象作品に応じて最もふさわしいやり方で自在に論を展開して行く。例えば、『風と共に去りぬ』においては、作品そのものを離れて大衆文学とは何かを内外の豊富な具体例に則して幅広く論じ、最後の一行でこの小説の本質を解き明かすという離れ業を示す一方、日本ではあまり知られていないマラマッドの『アシスタント』の場合は、本文にしたがって内容を紹介しながら、アメリカ社会のなかにひそむユダヤ人問題の根深さを明らかにしてみせる。しかもその女主人公ヘレンのなかに「救済者としての聖女像」を見ようとする著者の視線は、本書全体を貫く重要なモティーフと結びつく。一見したたかな悪女のように見えながら不思議な魅力の輝きを見せる『緋文字』(ホーソーン)のヘスターも、『鳩の翼』(ジェイムズ)のケイトも、まさしく「聖母のいない国」が生み出した女性像にほかならないからである。日本ではあまり人気のないウォートンの『エイジ・オヴ・イノセンス』を第一級の「恋愛小説」として著者が高く評価するのも、エレンのなかにほとんど聖母マリアに近い崇高性を見出したからであろう。もちろんそれと同時に、「自由と平等の国」と思われているアメリカの社会で、階層意識がいかに根強く生きているかという酷しい現実の状況をも著者は見逃してはいない。
 その愛の崇高性において、ウォートンのこの小説に比肩し得る日本での唯一の物語として、『源氏物語』の「宇治十帖」が挙げられている。その他『鳩の翼』と漱石の『明暗』とか、『ケイン号の叛乱』(ウォーク)と『春の城』(阿川弘之)など、しばしば日本の作品との比較を通じて思いがけなく肥沃な地平を切り拓いていることも本書の大きな特色であり、手柄である。それらの対比は、意外ではあっても決して恣意的ではなく、比較することによって比較される対象それぞれの特性が新しい照明の下に鮮明に浮かび上って来るという比較文学方法論の最良の成果であると言ってよい。そのことは、該博な知識に裏付けられた眼配りの良さとともに、著者の鋭い批評的感性を物語るものであろう。取り上げた個々の作品について、その芸術的評価や社会的意味も含めて新鮮な視角を提供するとともに、広い視野からの問題提起と卓抜な分析力によって読者を新しい知的昂揚の世界へ誘い込むという点において、本書はきわめて優れた批評的達成と言えるであろう。

高階 秀爾(東京大学名誉教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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