選評
社会・風俗 2001年受賞
『ジャン・ルノワール 越境する映画』を中心として
(青土社)
1959年、新潟県高田市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。
東京大学文学部助手、一橋大学法学部専任講師、同大学院言語社会研究科助教授を経て、現在、東京大学大学院総合文化研究科助教授。
著書:『フランス小説の扉』(白水社)
ジャン・ギャバン演じるフランス兵がドイツ軍の捕虜収容所から脱走し、雪山をのぼってスイスとの国境を越えてゆく。追手のドイツ兵が山上から撃とうとしたとき、それをかたわらの兵士が制止する。
「撃つな! 国境を越えたぞ」
第二次大戦の直前に作られたジャン・ルノワールの名作「大いなる幻影」(37年)の心に残るラストである。この、国境を超える映画を作ったルノワールは、その後の人生を見ると、自身が亡命と越境を繰返した映画監督だった、ととらえたのが野崎歓さんの『ジャン・ルノワール 越境する映画』である。
ルノワールというと印象派の巨匠を父に持ち、長くフランスで活躍した幸福な映画監督というイメージが強い。とりわけ、あの「象のババール」のような風貌のために幸福な人生を送った人という感が強い。
そのルノワールが実は一方で、第二次世界大戦をはさんだ過酷な現代史に翻弄された不幸な時期を持ったことを、この本は明らかにしてゆく。「大いなる幻影」の成功のあとに作った「ゲームの規則」が予想外の失敗に終り、フランスで映画を作りにくくなる。イタリアに行って映画を作ろうとするが、ファシズムの台頭の前にそれも挫折。
やむなくヨーロッパを逃げるようにしてアメリカに渡り、ハリウッドで映画を作るが、スタジオ・システムとことごとく対立して誇りを傷つけられる。そればかりか、戦後はじまった赤狩りに心理的圧迫を受ける。そこでまた追われるようにフランスに帰国する。
幸福なルノワールの実人生に、多難な越境体験があったことが明らかにされ、新鮮な感動がある。越境という現代の大きな主題を、ひとりの映画監督を通して浮かび上がらせていった意味も大きい。
書簡を資料としてうまく使い、サン=テクジュペリやイングリット・バーグマンらとの友情が“亡命生活”の支えになっていたことがわかる。映画監督を論じてこれだけひとを感動させる本は少ない。
大学の先生が書く映画の本にありがちな、難解で尊大な文章とは距離を置いた、平明端正な文章が清々しい。文品がある。
野崎さんはこれまでもフランス文学の翻訳家としてルノワールの長編小説『ジョルジュ大尉の手帳』、『イギリス人の犯罪』、『ジャン・ルノワール エッセイ集成』を翻訳してきた人である。本書は、長年のルノワール研究の大きな成果であり、ひとりの監督に惚れ込んできた慎ましい愛情が随所に感じられ、読後感がとてもいい。
野崎歓さんは、他にも、フィリップ・トゥーサンやエルヴェ・ギベールなど現代フランス作家の翻訳を数多く手がけてこられた。最近も、ミシェル・ウエルベックの『素粒子』を出版されたばかり。また今年は文芸エッセイ『フランス小説の扉』といういい本も出されている。まさに“旬”の人として強く推したい。
川本 三郎(評論家)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)