選評
思想・歴史 2000年受賞
『サイエンス・ウォーズ』
(東京大学出版会)
1954年、札幌市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。
筑波大学現代語・現代文化学系助教授、東京水産大学水産学部助教授などを経て、現在、東京水産大学水産学部教授。
著書:『フランス科学認識論の系譜』(勁草書房)、『バシュラール-科学と詩』(講談社)
本書の魅力は、何よりもまず、1990年代にアメリカを中心に巻き起こった科学と科学論をめぐる論争の渦中に読者を引き込むその手腕にあると言っていいだろう。「サイエンス・ウォーズ」とはその論争に付された名称である。
周知のように、この四半世紀、アメリカの人文科学は、ヨーロッパそれもフランスを中心に展開したポスト構造主義、とりわけディコンストラクショニズムの強い影響下にあった。極論すれば、アメリカの人文科学は、知的にはフランスの植民地と化していたといっていいほどであって、その状況は、自然科学の覇者としてのアメリカの自尊心を損ねずにはおかないものであった。人文科学すなわち科学論、自然科学すなわち科学である。
したがって、論争は起こるべくして起こったわけだが、それはしかしかつてポパーとフランクフルト学派の人々によって戦わされた論争ほどの生産性も持ってはいなかった。感情的な対立という側面が強かったからである。それは、ポストモダニズムという曖昧な言葉によって形容されることになったディコンストラクショニズムが、アメリカにおいて、少壮の学者や学生のあいだにほとんどスノビズムとしか言いようのない知的流行となって広がったことへの、きわめて自然な反発にほかならなかった。
著者はこのような思想的状況を、ひとつの論争を通して鮮明に浮かび上がらせることに成功している。のみならず、その背後に、古くからあった二つの文化の対立、人文科学と自然科学の対立が潜み、その対立がいまや政府および企業からの資金獲得競争を左右するものとなりつつあることをも的確に指摘している。人文科学は自然科学の独善を阻止するものであると同時に、いや、それ以上に、発展を阻害するものであるというわけだ。言うまでもなくこの事態は、環境保護運動が孕む矛盾や、遺伝子工学が孕む矛盾をも、明確な問題として浮き彫りにするものであり、事態がただアメリカにおいてのみ問題とされるようなものではないことを示している。紹介された論争は、現代の人文科学、自然科学の危機を示す一端であ って、問題の終わりではなく始まりにほかならない。
このような見地に立って、著者は自身の思想的な立場を明確にすべく三つのケーススタディを行なっている。すなわち、遺伝子研究と倫理の関係、医学の対象としての女性、過激な環境保護運動の意味を、それぞれ具体例を取り上げて、科学論の立場から論じたものである。本書において注目されなければならないのは、論争の紹介であるよりも、むしろ後半に付されたこの三つのケーススタディであると言っていいほどだが、これもまた結論にではなく、問題提起に重点が置かれている。すなわち著者は自身の到達点をではなく、出発点を明示しているのである。
この事実は著者の今後の活躍を期待させるに十分であると言わなければならない。
三浦 雅士(文芸評論家)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)