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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2000年受賞

蒲池 美鶴(かまち みつる)

『シェイクスピアのアナモルフォーズ』

(研究社出版)

1951年、松山市生まれ。
京都大学大学院文学研究科修士課程修了。
鹿児島大学教養部講師、東京大学教養学部助教授、英国暁星国際大学助教授、京都大学教養部助教授などを経て、現在、京都大学総合人間学部助教授。

『シェイクスピアのアナモルフォーズ』

 「アナモルフォーズ」とはあまり聞き慣れない言葉だが、美術の世界ではよく使われる。一見何を描いたかよくわからない絵を、ある一定の斜めの方向から見ると、あるいは円筒鏡のような特殊な鏡面に映してみると、はっきりした図柄が浮かび上って来るという一種のだまし絵である。時には正面から見た時と斜めから見た時でまったく違う絵になるという場合もある。マニエリスムの時代に特に好まれた。本書は、シェイクスピアおよび同時代の舞台芸術をアナモルフォーズの画面と見立てて、そこにこめられた二重三重の意味や見る人の視点によって変る構造を読み解き、テキストの本質に迫ろうとした野心的な労作である。その発想は大胆、分析は緻密、論証はスリリングで、高度に学術的な研究書でありながら、読む者を快い知的興奮に導く魅力にも欠けていない。
 もちろん、比類ない言葉の魔術師であったシェイクスピアが、ひとつの単語、一行の詩句のなかにさまざまの意味を担わせていたことはよく知られているし、それに関する先行研究もおびただしい数に上るであろう。だが本書の著者は、美術史上のだまし絵という映像表現を方法論上の武器として、言語論的分析を越えた奥深い解釈を導き出している。『リチャード二世』の第4幕第1場でリチャードが自分の姿を映す鏡を叩きこわしてしまう場面の分析など、その好例である。アナモルフォーズでは、描かれているものは眞の姿ではなく、正しい像は鏡面に映し出される。つまり描かれた絵は偽りの姿であり、いわば影である。だが次の瞬間、鏡を取り去れば鏡面の像は消え失せ、描かれた絵だけが残る。正しい像はその絵の影としてしか存在しない。実体と影とのこの絶え間ない転換がだまし絵の面白さなのだが、リチャードとボリングブルックとの関係はまさにそれと同じだと著者は言う。それは単に、悪逆な王が失脚して善良な王が登場するというだけの物語ではない。勝利者である筈のボリングブルックもまた「影」の存在に過ぎないことを、著者はさまざまの証拠を援用して論証する。アナモルフォーズ的分析の成果と言ってよいであろう。
 またこの種のだまし絵では、視点の差違によって異った図柄が見えて来るが、著者はこの時代の舞台と観客との間にも同様の構造があるという新鮮な受容論を展開してみせる。マーロウの『フォースタス博士』を論じた章がその見事な例だが、マクベスの有名なせりふ「七つの大海を血の色に変え」の分析では、さらに進んで、国王ジェイムズ一世の心理やシェイクスピア自身の罪の意識にまで入りこんだ大胆な解釈を提起している。
 さらに、アナモルフォーズを通じて、シェイクスピアのみならずマーロウや他の劇作家たち、あるいはさまざまの美術作品を、ジャンルや個性の違いを越えた時代の精神的風土のなかに位置づけたことも、ホルバインの『大使達』の卓抜な解釈とともに、本書の大きな功績であろう。

高階 秀爾(東京大学名誉教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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