選評
思想・歴史 1999年受賞
『<意識>とは何だろうか ―― 脳の来歴、知覚の錯誤』
(講談社)
1955年、東京都三鷹市生まれ。
マサチューセッツ工科大学心理学部博士課程修了。
スミス-ケトウェル視覚研究所研究員、東京大学教養学部助教授を経て、現在、カリフォルニア工科大学生物学部教授。
著書:『まなざしの誕生』(新曜社)、『視覚の冒険』(産業図書)、『サブリミナル・マインド』(中央公論社)など。
認知科学の面白さを何とかして一般の読者に伝えたい。無論、学問の最前線の知見や議論をきっちりと組みこみながら。そんな著者の思いが、みごとに実った。250頁ほどのコンパクトな新書スタイルの本書に、驚くべき深い内容がつまっている。
確かに読みやすい。だが安易な読み方を拒む手強さをもっている。人間の心や脳や意識に、どのようにアプローチしたらよいのか。実はアメリカの大学における認知科学の現場は、実験とデータ解析のくり返しで、いわゆる理系の実験室そのものだ。(こんなバカなことを言ったら笑われるか。)そこで現場の研究者としての著者は、能う限り客観的に対象に迫ろうと試みる時、専門化・細分化の〝闇”へと分け入らざるをえない。
だが、そこで著者は自問する。認知科学の全体像が見えてこない。こうした研究が一般の人々にどのような意味をもつのか…。かくて認知科学の意味と全体像を求めて格闘した成果が、本書であり、またこれに先立つ『サブリミナル・マインド』(1996年)に他ならない。
著者は東大教養学部での講義を再現するかのように、<です・ます>調で語りかける。しかもキータームを使う場合、なるべく外来語・英語を避け、漢語・日本語による表現に徹しようとしている。たとえば「来歴」という用語がある。著者は言う。脳が環境に適合するように自らを変えた場合、環境の激変は「錯誤」をもたらすが、そうでなければ「錯誤」ではなく「正解」をもたらす。著者はこの構図を元に脳の「来歴」を定義する。過去から現在に至る経歴のすべてと、暗黙の前提、顕在的・潜在的な文脈、身体的な暗黙知などの総体が含まれる。「私のいう『来歴』とは、『学習』や『経験』といったことばとちがい、生得説にも経験説にも加担しない、両方を橋渡しするダイナミックな概念であることに注意してください。」
「錯誤」の分析を通じて、著者は入れ籠状態になっている脳と身体と世界の相互関連性を一つ一つ解きほぐしてはまた収め、「意識」と「無意識」の問題にいたる。そして「無意識」の解明こそが「意識」の解明につながるとのメッセージを残し、人間観と倫理の領域を論ずることになる。
薬物利用・人工身体・人工脳等の現代的課題に対して、著者の結論は留保されたままだ。しかしここに至って、著者が説く認知科学のある側面は、オーソドックスな哲学が指摘してきた問題と表裏一体の関係にあることがわかる。かくて認知科学の彼方に哲学の姿が見えてくると、両者の対話の場が開かれ、したがって著者の問いかけは画期的な広がりをもつことになろう。
著者は流出頭脳として世界的に最先端の分野を担いながら、自らの学問の意味を根元的に問い直し、また他の学問分野へも、さらには一般読者にも知的刺激を与えた稀有な存在である。しかしこれこそが、学者本来のまっとうなあり方ではないのだろうか。
御厨 貴(政策研究大学院大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)