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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1999年受賞

榎本 泰子(えのもと やすこ)

『楽人の都・上海 ―― 近代中国における西洋音楽の受容』

(研文出版)

1968年、東京都世田谷区生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
東京大学総合文化研究科助手を経て、現在、同志社大学言語文化教育研究センター専任講師。

『楽人の都・上海 ―― 近代中国における西洋音楽の受容』

 最終候補作の中で、著者の年齢がずば抜けて若かったのが本著の榎本泰子氏である。まだ三十を超えたばかりだから、驚異的な若さである。と同時に、この若さにしての文章の明快さ、切れのよさ、論点の手渡し方のうまさに舌を巻く。
 副題に「近代中国における西洋音楽の受容」とあるように、本著のテーマは今世紀初頭から1930年代までの中国で、西洋音楽がいかに受容され、発展したかということにある。ただし、その分野の専門家はともかくとして、おおかたの人にとっては関心が薄いことだろう。
 むろん、これは本著だけがかかえる問題ではない。選考する側にそれぞれの専門分野があるわけだから、程度の差はあれそれをずれると理解するのに苦労をともなう。それを超えて興味をいだかせ、うなずかせるにはテーマのおもしろさもさることながら、論点の運び方、つまり記述がポイントであり、大事なのだということになる。
 前記のごとく、本著はこの点に関して群を抜く。実をいうと、近代中国への異文化の導入という観点からして、ほぼ重なる問題を扱った別の著作も最終候補作の中にあった。が、受賞を逸したのはこの差である。
 それにしてもと思うのは、中国における上海というトポスの魅力と、西洋音楽の移入や発展の面でもかかわりの深い日本との関係である。前者は英米仏の租界と中国人の居住区がイタリア人を指揮者に招いた上海工部局交響楽団で、その演奏会を聞いたヨーロッパで音楽を本格的に学んだ最初の中国人である蕭友梅(シャオヨウメイ)が、中国初の音楽学校たる国立音楽院を上海に設立することになる。
 本著はこの学校と創立者の蕭友梅の動向を主軸にするが、その蕭友梅が日清戦争後の日本への留学熱のさなかに来日、東京音楽学校でピアノや声楽を学んでいる。ヨーロッパ留学の以前である。そして蕭友梅を含む日本への留学生が中国で最初の音楽教育に着手するが、やがての日中戦争は、要となった蕭友梅の音楽観を変えるにいたる。音楽に国境はなく、いずれ中国の音楽も西洋のそれも区別がなくなるとしていた蕭友梅が、抗日意識の高まりとともに民族性を強調しはじめ、「現代中国人が持つべき精神、思想感情」を表現したものが国楽だとするようになるのである。
 こういう変遷を資料を駆使して丹念に追い、文化大革命をも視野におさめる見取り図が提示される。その魅力的な語り口は、門外漢をも十分に引き付ける。本著を推す所以であり、氏の若さを思えば、今後への期待も大きい。心からお祝いを申し上げる。

大笹 吉雄(演劇評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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