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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1998年受賞

豊永 郁子(とよなが いくこ)

『サッチャリズムの世紀 ―― 作用の政治学へ』

(創文社)

1966年、東京都武蔵野市生まれ。
東京大学法学部卒業。
東京大学法学部助手、同専任講師等を経て、現在、九州大学法学部助教授。

『サッチャリズムの世紀 ―― 作用の政治学へ』

 「サッチャリズム」という不用意な呼び方が喚起する確かな政策プリンシプルが80年代のサッチャー政権を貫いていたという安易な思い込みを、何よりも本書は心地よく打ち砕いてくれる。実際、新自由主義、新保守主義と後に呼ばれることになる明快な原理と信念に基づく政策プランがサッチャー氏にあったわけではない、という著者の基本的認識は今日むしろ重要だ。あったのは、70年代から80年代へかけての時代情勢に対応しようとする保守党の手探りの試みであり、中央政府と地方自治体の対立であり、またサッチャーとヘイゼルタイン、リドリーといった保守党有力政治家の間の軋轢であった。こうした人間的であるがゆえに政治的であらざるをえない諸力の働きを、著者は「作用」と呼び、「作用」によって、いわゆる「サッチャリズム」が生成されてゆくプロセスを追う。
 本書の魅力は、何よりもその手際よく整理の行き届いた記述にある。ここでは、サッチャー政策の意味を浮かび上がらせるにあたって採用された工夫、つまり、政治を、「支持の政治」「権力の政治」「パフォーマンスの政治」の三つのディメンジョンから把握するという工夫が功を奏している。しかもここで、読者は、いくつかの特記すべき発見に導かれるはずだ。サッチャー政権の住宅政策(住宅買い取り政策)が、もともと、この大衆化時代における保守党のあたらしい支持基盤(「国民」ではなく「人々」)の確保と、財産民主主義という保守党の伝統的志向の結合であったということ。しかし、それが、中央と地方の権力的対立の中で、一定の国家戦略へと変えられてゆき、行政改革や独立エイジェンシーを生み出したこと。さらに、住宅取得の財産保有が大衆による株式保有の「ポピュラー・キャピタリズム」へと拡張され、ここに、新たな保守党の支持基盤と権力の様式が形成されること。そしてついでにいえば、いわゆる、民営化、市場化を中心とする「サッチャリズム」なるものは、こうして、いわば結果的に形成されたということなど、すでに歴史のカテゴリーの中へはいりつつあるサッチャー政治の意味があかるみに出される。
 著者が、サッチャー政策の意味を、もっぱら住宅政策に焦点をあわせて論じている点は、若干問題を含むかもしれない。いうまでもなく、サッチャー政策は、住宅政策だけではなく、シティーと製造業の関係、教育政策や研究開発への援助の問題、ヨーロッパ連合との関係、アメリカと連携した対ソ政策などを含んでおり、「サッチャーの世紀」を謳う以上は、これらを総合的に論じてもらいたいと思う。本書のよさは、むしろ、住宅政策のみに焦点を合わせることで、サッチャーによる保守政治の転換の意味を浮かび上がらせた点にあるとは言えるのだが、果たして、競争原理の導入を軸とするサッチャー的政策の他の側面まで視野に入れたとき、著者の結論がそのまま保持されるのかどうか、多少疑問に感じた。また、最終章における、「作用」や「構造」「機能」などをめぐる方法的な論議は、いささか物足りない、という意見が出されたことも蛇足ながら付け加えておきたい。

佐伯 啓思(京都大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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