選評
思想・歴史 1997年受賞
『陸軍将校の教育社会史 ―― 立身出世と天皇制』
(世織書房)
1959年、広島県東城町生まれ。
東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。
南山大学文学部助教授などを経て、現在、東京大学大学院教育学研究科助教授。
著書:『士族の歴史社会学的研究』(共著、名古屋大学出版会)
戦後日本の教育改革は、かつて旧制高校─帝大のコースに匹敵した海軍兵学校や陸軍士官学校など軍学校の存在を一掃してしまった。外国においては軍事史研究は、歴史学の重要な分野とみなされているが、日本の歴史教育ではとかくタブー視されてきた。このために、戦争責任や戦争参加の意味を考える際に、ともすれば天皇と側近、陸海軍の首脳や一部青年将校を断罪するだけの基底還元主義が幅をきかせてきた。日本国民の多数はなぜ陸海軍を熱狂的に支持したのか、青少年はなぜ自ら進んで将校に憧れたのだろうか。その動機や心理については、ほとんど検討されず、文学作品に委ねられてきたのが現状である。しかし、広田照幸氏は、陸軍将校の教育社会史という新鮮な切り口で、戦時体制の積極的な担い手の精神構造を明らかにし、ひいては近代日本の天皇制と教育との関わりを分析しようとした。本書は、新世代による野心作として賞賛に値する。
著者は、陸軍軍人をめざした者たちが存外と世俗的な出世欲に固まっていたことをまず明らかにする。これは、日本の軍人社会が王侯や貴族の出身者から成る西欧の軍隊と違って、品性よりも学力を重んじる実力選抜の方法をとった点と無縁ではない。1938年頃まで、軍学校を志望したのは軍人の子弟たちを別とすれば、地方の農業層出身者が多かった。大都市部の富裕で学力も高い旧制一流中学生たちは、高校進学の道を選択しがちであった。
「当たりはずれのない軍人社会」への参入によって得られる欲望の満足感は、「天皇制イデオロギー」の忠実な信奉者でありながら、行動を見ると立身出世主義者という二重性をつくりだした。しかし、軍隊も官僚組織である以上、大尉や少佐で予備役(退官)に入る人間も多く、薄給や将来の見通しのなさが陸大卒業者(天保銭組)に対する非エリート(無天組)の反感や嫉妬を育てる複雑さを抱えていた。広田氏は、軍人も人事行政に不満をもち、栄達や保身の欲求をもつ生身の人間である事を浮かび上がらせた。閉塞しがちな人事を開いたのは、満州事変以後の戦時体制への移行である。もっとも、慎重な広田氏は戦争拡大の主要因をすぐに将校たちの生活問題に求めたりはしない。それでいながら、戦時体制を支えた心理構造を理解するには、将校による生活上の諸側面への関心を無視すべきではないと語る。このあたりの冷静なリアリズムが本書の魅力となっている。
陸軍士官学校と幼年学校は、「将校生徒としての自覚」を教え、「天皇への距離」の近さを諭すだけで、自発的に「選ばれた者」としてのエリート意識を生徒に身につけさせた。広田氏は、この様子を生徒の日記や旧軍人の回顧をもとにリアルに描くことに成功した。秩序に積極的に同化することで、天皇に忠誠を誓いながら、名誉心や地位の上下に敏感になる陸軍将校が育てられたという氏の主張にも説得力がある。
著者は、旧軍関係者にも聞き取りをおこない、従来の教育学者が顧みなかった旧軍資料や文学評論の山を渉猟した。鮮明な問題意識と堅実な叙述、鋭い分析枠組と確かな文章力。いずれにおいても、学術書でありながらポピュラリティをもつ書物であり、戦後新世代による力作として、サントリー学芸賞を受けるにふさわしい業績である。
山内 昌之(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)