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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1997年受賞

仁平 勝(にひら まさる)

『俳句が文学になるとき』を中心として

(五柳書院)

1949年、東京都武蔵野市生まれ。
中央大学法学部卒業。
結社誌には所属せず、フリーで執筆活動。現在、学習塾専任講師、俳人・評論家。
著書:『詩的ナショナリズム』(富岡書房)、『虚子の近代』(弘栄堂書店)、『秋の暮』(沖積舎)など。

『俳句が文学になるとき』を中心として

 俳論というと、ともすれば体系性のない芸談か、耽美的な世界の内輪の話に終始することが多く、それが社会史や文化論の領域の話に接続してゆくということはめったにない。他方、社会史や文化論の側でも、俳諧や俳句という領域を全体として問題にすることはあっても、個々の句の解釈や鑑賞につながるようなアクチュアルな議論にはなかなか発展しない。ダイナミックな文化論と個別的な作品鑑賞の世界とを両立させるという、そんな、物書きであれば誰でも一度はもつ、しかし実現しがたい願望を、仁平氏はこれまでそういうこととは最も縁遠いと思われていた俳句という領域で、いとも簡単になしとげてしまった。
 仁平氏は『詩的ナショナリズム』、『虚子の近代』と一貫して、俳句というジャンルが俳諧の伝統の上に立ちながら、明治以後の流れの中で自らのあり方を「近代化」させ、「文学」の一ジャンルとして自らを位置づけてゆくにいたる過程を追い続けてきた。今回の受賞の中心的な対象となった『俳句が文学になるとき』は、その延長上に出てきた業績である。この本は端的に言えば句集であり、子規、虚子、蛇笏、放哉、久女という5人の作家の代表的な句を取り上げ、解釈しているのであるが、われわれがこれまで慣れ親しんできた様々な「名句」が、そういう歴史的背景への深い洞察をふまえた議論を通して新しい光をあてられるさまは何ともスリリングであり、「なるほどこんな風にも読めるのか」と思わず納得させられてしまう。
 たとえば「いくたびも雪の深さを尋ねけり」という、あの子規の句は、西洋の写実主義的な芸術思想を取り入れて俳諧を「近代化」することに心を砕いた子規の模索が、皮肉にも彼が病に倒れて外界から遮断されることを通して到達した一つの結実として読み解かれる。また、虚子の様々な句が、子規同様に西洋的な「写生」を取り入れつつも、前近代的な俳句性との間にうまく折り合いをつけて、そういう前近代的な感性を保存する仕掛けとして近代俳句を機能させることに成功した事例として読み解かれてゆくあたりは、(たぶん本人の意図には反するだろうが)日本の「近代化」の中での俳句が「日本的なるもの」として形成されてゆく過程を描き出した一種のカルチュラル・スタディーズですらあるかのようだ。それがあまりにも凝縮された形でさらりと語られているので、日頃理屈をこねる習性のあるわれわれにしてみれば、もっと展開してほしいと少々不満に思われるほどだ。
 だが本書にみられる個々の句の解釈は、決して単なる歴史的説明に終わっているわけではなく、さすがに著者自身俳人であるだけのことはある、と思わずうならされるような洞察や直観に満ちている。これはただの学者にも、ただの俳人にも書ける本ではない。正直のところ、こういう「現場」の人間にかくも鮮やかに議論をされてしまうと、われわれのような「理屈屋」はもはや立つ瀬がなくなってしまうのである。

渡辺 裕(東京大学助教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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