選評
思想・歴史 1996年受賞
『ヒュームの文明社会 ―― 勤労・知識・自由』
(創文社)
1955年、東京都世田谷区生まれ。
慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。
慶應義塾大学経済学部助教授などを経て、現在、慶應義塾大学経済学部教授。この間、日本学術振興会海外特別研究員としてグラスゴウ大学留学。
長い間アダム・スミス研究が中心であった18世紀イギリス思想研究も、近年は、急速に様相が変わりつつある。まず、それはスコットランド啓蒙へと射程を広げ、その方面での研究書もいくつか目につくようになった。その一方で、やはりスミスと共にスコットランド啓蒙を代表するもう一人、デイビッド・ヒュ一ムについては、おおくの研究論文があるわりには、まとまった著作は少なかった。ここにはいくつかの理由があるだろう。スミスが道徳と経済についてのまとまった書物を書いたのに対して、ヒュ一ムの著作の大半は道徳、宗教、政治、経済、歴史にまたがる論文の集積だということもある。そして、さらにスミス以上に、ヒュ一ムの場合には、その思想が18世紀イギリス社会の歴史的条件と社会構造から不可分だということもあるだろう。したがって、ヒュ一ムを論じるには、とくにスコットランドとイングランドの関係を含む、18世紀英国の歴史的構造を背景とし、道徳論、政治論から経済論にいたる広範な分野へのバランスのとれた目配りが必要とされるわけである。 しかし、まさにこの点にヒュ一ムという思想家の魅力があるのだ。そして、本書はまさにこの魅力を見事に引き出してくれた。ヒュ一ムの「市民社会」ではなく「文明社会」を論じるのだという著者の姿勢に、すでに独特の視点が確固としている。
われわれは一方で、スミスによって発見された市民社会の経済構造(市場経済)からその内在的矛盾をえぐり出したマルクスへという図式に捕らわれてきた。そしてまた一方で、ロックから始まる名誉革命イデオロギーとしてのウィッグ史観というイギリス史解釈を当然としてきた。本書が描き出すヒュ一ムは、これらとは全く異なった独自の像である。ヒュームは、古典的共和主義の市民社会からは明らかに決別した。しかしまた、自由な市場中心の市民社会を構想したのでもない。いってみれば、イギリス史の中に、イギリスの歴史を引きずりながら成立した新たな「文明社会」の意味を論じたのである。本書は、このモチーフを、ヒュームの著作に即して丹念に追跡しているだけではなく、当時のスコットランド啓蒙との関連や、この分野に関する近年の研究を引照しつつ明らかにしてゆく。著者は、この本はヒュ一ムの全体像を描き出したものではない、と書いているが、全体像ではないにしても、ここで、ヒュ一ムの思想的営為が大きなまとまりをもって与えられたことはまちがいない。本書は高度な水準の研究書であるが、一般読者が読んでも興味深く読めるだろう。過不足のない平易な叙述とヒュ一ムを見る確かな視点がそれを可能にしている。
佐伯 啓思(京都大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)