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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 1996年受賞

安 克昌(あん かつまさ)

『心の傷を癒すということ ―― 神戸……365日』

(作品社)

1960年、大阪市生まれ。
神戸大学医学部卒業。
兵庫県立尼崎病院、湊川病院勤務等を経て、現在、神戸大学医学部精神神経科助手。

『心の傷を癒すということ ―― 神戸……365日』

 安さんは、阪神・淡路大震災後、診療や救援活動で心身もろともへとへとになったその深夜、神経がたかぶり、涙もろくなり、放心しながらも、あるいは「つらくて」指が動かなくなりながらも、ワープロに向かって文章をしぼりだした。「被災地のカルテ」という題で、週1回、産経新聞紙上に1年間連載された文章である。
 消火・救援活動に携わりながら市民の罵声に深く傷ついた(自身も被災者である)消防士たち、やはりじぶんの家が全壊しながらも、休みなしに看護活動に当たる看護婦にどう声をかけたらいいかわからないと涙ぐむ婦長、避難所での「まる見えの生活」で極度の緊張を強いられ混乱した心、突然の「震災同居」のなかでじわりじわりひび割れていった結婚生活、そして患者がやっと「重荷を下ろせる」ようになった小さなきっかけ・・・。これらを描く筆致は、同僚の中井久夫氏の表現のことばを借りれば、「やわらか」であり、ときに「まろやかでさえある」。
 震災による生活とその環境の変化がじわじわ身にこたえてくる慢性的なストレス、その見過ごされやすい心の傷の一つ一つにふれ、それらを「社会全体に加わったストレス」との関連へと拡げていく安さんの視線は、災害とケアを論じた数々の文章のなかでもきわだって濃やかで、重かった。
 かつて柳田国男は、災害や不幸や貧困に共同で対処する「共同防貧」の構えがわたしたちの社会のなかからしだいに消えていき、それらを「説くに忍びざる孤立感」のなかで耐えるしかなくなった「孤立貧」の蔓延を、社会の深い病理として憂えたことがあったが、阪神・淡路大震災後の復興過程で、まさにそのことが問われたのだった。安さんも、「心的外傷を受けた人は孤立しやすい」と指摘する。「震災後、困惑する老人たちを見て、コミュニティはたんなる概念ではなく実体そのものであることを私は思い知った」、その「コミュニティが震災によって深く傷つけられた」・・・。これが安さんの答えだ。
 安さんは、「心的外傷から回復した人に、私は一種崇高ななにかを感じる」とも書いている。そして、傷ついたそのひとたちを迎え、その回復過程をともにしうる社会こそ、「品格」のある社会だと言う。
重い言葉だとおもう。

鷲田 清一(大阪大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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