選評
思想・歴史 1995年受賞
『クビライの挑戦 ―― モンゴル海上帝国への道』
(朝日新聞社)
1952年、静岡県沼津市生まれ。
京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。
京都大学人文科学研究所助手、京都女子大学文学部助手を経て、現在、京都大学文学部助教授。
著書:『大モンゴルの世界』(角川書店)
杉山正明氏の書物は、新しい世界史の進路を考える上でも示唆を与えてくれる。モンゴルといえば、ありとあらゆる非難や悪罵をこれまでも浴びせられてきた。中国史プロパーの研究者には、今でも偏見にとりつかれている者が少なくない。しかし、1276年に滅ぼされた南宋の首都杭州では、住民からほとんど犠牲者を出さなかった。それどころか、杉山氏はモンゴル支配下でこそ杭州が空前絶後の繁栄を続けた事実を明らかにする。
ロシアでいう「タタールのくびき」についても、従来の通説は疑わしかったが、改めてモンゴル史の立場から説得力に富む見方が提示された。たとえば、13世紀のアレクサンドル・ネフスキーは、モンゴルの好意的黙認や支援をえてドイツ騎士団やスウェーデン軍と戦って勝利を収めたのでは、というのが杉山氏の考えである。しかも、勝利といっても、ドイツ騎士団の「侵入軍」の人数はせいぜい100から200人程度にすぎなかった。
また、杉山氏は、モンゴル繁栄の秘密がそのコスモポリタンな性格、民族的偏見をもたぬ能力第一主義などによることを説き明かす。たとえば、クビライの兄、大ハーンのモンケは数カ国語を自由に操り、ユークリッド幾何学をはじめ、古今東西の諸学に広く通じる抜群の知識人だったことがペルシア語史料から確認されるという。クビライも聡明きわまりなく、手ずからウイグル文字で文書を認めたらしい。周辺のブレインも、さまざまな民族の出身者であったが、モンゴル語を理解したのである。
杉山氏の仕事は、漢文、ペルシア語、モンゴル語など多言語の史料に基づく堅実な研究成果を分かりやすく江湖に問うたものである。<東洋学>の実証主義を意欲的な世界史の構図に結びつけようとする氏の<ラディカル・ヒストリー>には、アカデミズムの新しい可能性と進路が予知されているのではないか。一つだけ不満を言えば、禁欲的な著者は、一般読者を想定しているせいか、いたずらに史料を列挙しようとしない。しかし、読者へのレファレンスとして、やはり巻末には簡単な史料文献の一覧があった方が親切であろう。
杉山氏は、クビライ以後のモンゴル帝国が軍事・通商帝国としての性格を強めたことを明らかにした。「ノン・イデオロギーの共生」、宗教色の薄さなど、地域紛争や民族・宗教対立の解決など、モンゴル帝国から学ぶべき点は多い。『クビライの挑戦』は、オスマン帝国やハプスブルク帝国など<平和共存の多民族帝国>の統治美学を見直すべき現在、時宜に叶った業績といえよう。
山内 昌之(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)