サントリー文化財団

menu

サントリー文化財団トップ > サントリー学芸賞 > 受賞者一覧・選評 > 石川 達夫『マサリクとチェコの精神 ―― アイデンティティと自律性を求めて』

サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1995年受賞

石川 達夫(いしかわ たつお)

『マサリクとチェコの精神 ―― アイデンティティと自律性を求めて』

(成文社)

1956年、東京都中野区生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻博士課程修了。
広島大学総合科学部専任講師を経て、現在、同助教授。
著書:『チェコ語初級』(大学書林)、『モダニズム研究』(共著、思潮社)など。

『マサリクとチェコの精神 ―― アイデンティティと自律性を求めて』

 よく知られているように、プラトンは、哲学者が統治するか、統治者が哲学するか、いずれにせよ政治権力と哲学精神とが一体化することこそ理想的な国家の要件であると説いて、いわゆる哲人政治の必要を強調した。この主張が、無条件ではないにしても、それなりに深い真理を含んでいることは、げんに私たち自身が、哲学を忘却するどころか、それの何たるかをさえ弁えない群盲政治家によって操られている国家の昏冥と悲哀を經験しつつあることからも明らかだと言ってよい。
 しかし哲人政治という理想が言うは易くして行うは至難のものであることは言うまでもない。(プラトン自身もシラクサの体験で挫折を味わなければならなかった。)そもそも複雑きわまりない「現実」と高邁な「理念」との間には深い乖離と強い緊張関係があり、両者の統合には実際の經験に裏付けられた高度の思慮を必要とする。そして「現実」とは、この場合、国内の政治状況と国際的なパワー・ポリティクスとの複合体であり、「理念」は政治家の知性の産物であっても、それを醸成するのは民族の文化的伝統である。
 かつてのチェコスロヴァキアの大統領マサリクはまさしく20世紀における哲人政治家の好例である。彼の生涯は「理念」と「現実」との間で苦悶し懊悩しながら、「小国家」を導いた哲人政治家のモデルをよく示している。彼の場合、「現実」の基礎にあるのは、祖国が第一次世界大戦後の辛うじて独立を獲得した「小国」であるという、どうすることもできない宿命的な事実と、ドイツとソビエトという二大強国の峡間に位置して、人種・言語・文化などの面でゲルマンとスラヴの影響が同じように深く浸透しているだけでなく、両大国の権力的介入によってたえず揺れつづけなければならなかったという地政学的な条件である。
 そういう事実や条件の下で「アイデンティティと自律を求めて」国家を指導するためには、それだけ明確で強固な「理念」が必要である。マサリクの理念の培養基となったものが民族の宗教的・思想的な伝統であり、これに養われて彼は民族性と世界性の媒介にもとづく「人間性」の「理念」を構想したのである。
 石川達夫氏のこの労作は、チェコスロヴァキアにおけるフス以来の宗教改革運動やコメニウスとそれに続く人々によって蓄積された思想的遺産と、マサリクの信条形成およびその時代の政治状勢との内的な連関について、豊富な学識と文献資料にもとづいて私たちの蒙を啓いてくれるとともに、理想を掲げながらも脚下の現実を見失わなかった哲人政治家マサリクの姿をヴィヴィッドに描いて見せてくれ、政治と哲学、哲学と現実との関連について反省する材料を与えている。
 叙述にやや冗漫な点があり、コンテクストのつながりがいささか明瞭でない憾みもあるが、歴史的な研鑽と現代的な意義とを兼備した卓越した業績として評価される。

中埜 肇(岡崎学園国際短期大学学長)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

サントリー文化財団