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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 1995年受賞

奥本 大三郎(おくもと だいざぶろう)

『楽しき熱帯』

(集英社)

1944年、大阪市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。
横浜国立大学助教授等を経て、現在、埼玉大学教養学部教授。
著書:『虫の宇宙誌』(青土社)、『本を枕に』(集英社)、『捕虫網の円光』(平凡社)、『干支エトセトラ』(岩波書店)、『ジュニア版ファーブル昆虫記』(訳・解説、集英社)など。

『楽しき熱帯』

 奥本大先生と呼んだっておかしくないこの方に、いまさら学芸賞でもあるまいと怯(ひる)みもするのだが、『楽しき熱帯』で捕虫網を握りしめ眼を瞠って息を弾ませているのは、思わず駆け寄って小遣いを補給して上げたくなるほどカワユイ奥本少年である。自然を好きになるということは、トリスタンとイゾルデを宿命的な恋に陥らせたような愛の媚薬を、ごく小さい時に飲んでしまうようなものだと著者が言うその媚薬は、不老の効能も合わせ持つらしく、昆虫少年は永遠に少年のままなのだ。病床に縛りつけられて、ひたすら読書と空想に耽った小学生時代に飲んだ媚薬で「緑の魔境」に魅せられた少年が、以来四十年間憧れ続けたアマゾンに、遂にはるばるやって来た。よかったね奥本クン。
 しかしそのブラジルの日本人小学校さえ今や受験勉強に忙しくて、昆虫採集など誰一人見向きもしない。受験少年に続いてパソコン少年という新種の大繁殖も始まって、昆虫少年は減るばかりなのだ。後継者のいない伝統芸能を守る人の心境はかくもあろうかと奥本氏は憮然とする。
 昆虫少年の孤塁を守る奥本氏は、また古き佳き大正ディレッタント生き残りかと思わせるほど、レトロな風格のみなぎる老成した教養人でもある。アマゾンの奥地に持参するのもポルトガル語会話などというような実用書ではなく、「イリアス」と「東海道中膝栗毛」だし、ふと口をつく旅の感慨も漢詩の一節だったりする。みずみずしい感動に溢れたこの愉快な旅行記は、博物学のみならず文学や歴史の深い教養が実にさりげなく行間にひしめいて、知のジャングルを垣間見ることもできる豊饒な本である。
 ずれも絶滅の危機に瀕する昆虫少年と教養人の魅力的特質を合わせ持つこの「稀種」を、ようやくサントリー学芸賞の標本箱に列することができて私は安堵した。
 この書名は当然レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」へのオマージュであり、楽園を蹂躙したヨソモノ文明に対する悲哀と苦渋に満ちたレヴィのまなざしを著者も共有している。
 熱帯には花火のような生命の祝祭が日々華麗に繰り広げられる。宵越しの金は持たない江戸っ子と同様に、熱帯は貯蓄をしない。生命は天下の回りもので、絶えず消費され速かに循環するのだ。そこに北方から進歩と繁栄と蓄積を錦の御旗にした暴力的な文明が進出し、足るを知らない愚かな欲望のために無邪気なインディオをサディスティックに嬲り殺し自然を破壊し、おびただしい種を絶滅させ続けている。
 「物を貯えることこそは、生物としての人間の犯した数々のルール違反の中でも最大のものであり、まさに原罪なのである」という著者の物静かな告発に、深く頷かずにはいられない。

桐島 洋子(随筆家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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