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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1994年受賞

本村 凌二(もとむら りょうじ)

『薄闇のローマ世界 ―― 嬰児遺棄と奴隷制』

(東京大学出版会)

1947年、熊本県八代市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科西洋史学専攻博士課程修了。
法政大学第一教養部専任講師、東京大学教養学部助教授などを経て、現在、東京大学教養学部教授。

『薄闇のローマ世界 ―― 嬰児遺棄と奴隷制』

 古代ローマの歴史書には、嬰児の殺害や遺棄に触れたものが少なくない。しかも、現代人の感覚からすると驚いたことに、そうした行為がさりげなく淡々と語られている。してみると、嬰児の遺棄や殺害は必ずしも異常事ではなく、普通の現象だったのかもしれない。こうした推論から出発して、ローマ帝国と古代社会について考えたのが本村氏の書物である。学術書の体裁をとっているが、平易な文章と現代的な関心に支えられた記述は読む者をあきさせない。奴隷制度、避妊と堕胎、姦通と強姦など、現代の風俗にもつながる人間社会の光と闇の部分についても、著者の学識は深く、人間観察の目はますます鋭い。
 この本から分かるのは、嬰児遺棄の慣行がかなり広がっていたこと、遺棄されても拾われて生き残る子どもの数が従来考えられていた以上に多かったこと、の二点である。著者が引用するトラヤヌス帝の書簡は、「自由人に生まれて遺棄され、その後なに人かに拾われて奴隷として養育された者」に言及している。このように、古代社会が発展して富裕階層が成長する背景には、奴隷労働力への需要が大きく、そのかなりの部分が遺児で占められていたらしい。
 古代ローマの避妊や堕胎について、驚くほど多くの日本人は誤って理解してきた。この点でも、本村氏はわれわれの迷蒙をひらいてくれる。堕胎は母体を損なう可能性が高かった。そこで家族や集団を調整しようとすれば、いきおい嬰児を殺害するか遺棄するかの方法が講じられた。著者は人口動態モデルや数値計算をおこなって、殺害よりも遺棄の事例が圧倒的に多いことを証明する。このあたり、著者の学問的実証性が遺憾なく発揮されるが、専門家には統計処理の基準などで気になる箇所があるかもしれない。しかし、論述にかんする限り、読んでいて実証プロセスが少しもわずらわしくない。文章力もさることながら、人間洞察力の確かさについ引きこまれてしまうからだろう。
 さて、ローマの嬰児遺棄の慣習と比べて、日本の前近代社会では間引き(嬰児殺害)が普通だったことをどう考えるべきか。これについて、本村氏は、奴隷制度の有無、生命観や家族観の違いを問題にすべきだと指摘している。嬰児遺棄やセクシュアリティに古代史家が挑戦した本書は、さながら現代の世相を逆照射している点でも多くを考えさせてくれる。サントリー学芸賞の受賞を機に「男塩野七生」ともいうべき文才と構想力を、歴史叙述面でもますます発揮することを期待しておきたい。

山内 昌之(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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