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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1994年受賞

尹 相仁(ゆん さんいん)

『世紀末と漱石』

(岩波書店)

1955年、韓国生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化専門課程修了。
ロンドン大学客員研究員、漢陽大学校専任講師等を経て、現在、韓国・漢陽大学校文科大学日文学科助教授。

『世紀末と漱石』

 夏目漱石に対する関心は近年ふたたびいちじるしい高まりを見せている。新版の全集(岩波)も売れゆきがよいとのことだし、文庫版の漱石ものはどこの本屋でもみな揃えてある。研究書や評論も相つぎ、もうとても追いつけないほどだ。最近は『漱石研究』という季刊の専門雑誌まで出はじめた(翰林書房)。
 この漱石ブームのなかで、少なくともその研究・評論の分野で、断然群を抜いてすぐれた成果を示したのが、韓国人の青年学究尹相仁氏による『世紀末と漱石』である。この書物をひもどいていって、人々は驚き、眼を洗われるような思いをするだろう。――漱石が20世紀初頭のロンドンに留学し、多くの世紀末ヨーロッパの美術や文学に接したことは知っていた。だがその体験がこれほど深く親密なもので、作家漱石の想像力の中核にまで浸透し、その作品の構想を醸し色合いをなしかくも多様な細部にまで瀰漫しているものだとは、思ってもみなかった、と。
 尹氏は比較文学比較文化という漱石研究(そして近代日本文化研究)には不可欠の、もっとも正統な方法を、ここに眞向から推しすすめてみせたのである。
 第一に、明治後期の日本の思想・文藝と同時代ヨーロッパの世紀末的デカダンスとの意外なほどに直接な呼応の関係について、歴史的な展望の立てかたがまことに鮮やかであり、諸事象への把握の力の強さがよく示されている。この面でも欧米・日本における先行研究はおびただしいが、尹氏はそれらを十分に参照しながらそのなかに溺れることなく、世紀末人間漱石の根をつちかった流れを的確に論じつくしている。
 第二に、作品の表現の細部に対する読みのするどさ、そして深さは瞠目すべく、読んでいて快哉を叫びたくなるほどである。しかもその読みは、第三に、漱石自身の文章や記録はもちろんのこと、東北大の漱石旧蔵書文庫などの徹底した周到な調査によって、みごとに裏づけられている。読みと調査に拠りどころをもつ推論はいくつも勇敢に試みて、みな面白いが、漱石をめぐってとくに多い文学青年風、あるいはその成り上りの評論家風の、手をこまねいたままの、根も葉もない奇矯な御託宣は、ついに一つも発することがない。多彩にして華麗でありながら、なおよくディシプリン(学問的規律)の利いた研究書なのである。
 そして第四に、その論の進めかたの明快さ、その日本語表現の的確さ。それは単にみごとという以上に、美しいとさえいってよい(「バタ臭い」を「バターくさい」と書いたのが、ほとんど唯一の、愉快なミスか。p.144)。これを書いていた頃の尹氏はようやく30代半ば、日本語は氏にとって全くの外国語だった。漱石を読みながら日本語を学んだとさえいえる。それを使いこなして、軽々と漱石研究に一期を画してしまった。韓国における日本研究の新世代の実力を代表する作であり、サントリー学芸賞に中国人2名につづく最初の韓国人学究として尹相仁氏を迎えるのは、選考委員一同の誇りとし、喜びともするところである。

芳賀 徹(国際日本文化研究センター教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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