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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 1993年受賞

松山 巖(まつやま いわお)

『うわさの遠近法』

(青土社)

1945年、東京都世田谷区生まれ。
東京芸術大学美術学部建築学科卒業。
建築設計事務所を友人らと設立(1982年解散)。評論活動に携わる一方、この間、東京理科大学理工学部、法政大学教養学部で非常勤講師を勤める。
著書:『乱歩と東京』(PARCO出版)、『まぼろしのインテリア』(作品社)、『世紀末の一年』(朝日新聞社)など。

『うわさの遠近法』

 めくらめくというのだろうか。明治、大正、昭和の夥しい噂を一網打尽に圧縮した世相の万華鏡に吸い込まれて、猛々しい時代の体臭が渦巻く中を螺旋状に通過しながら、近代日本の生理を一気に追体験したような圧倒的な読後感である。
 テレビや週刊誌でたちまちのうちに大量消費される現代の噂はほとんど工業製品で個性に乏しいが、昔の噂はてんでんばらばらのローカルな手作りだから、それぞれに癖があり味が濃く、ゲテだが面白い骨董として後世の鑑賞にも耐えるのだ。そして噂の素材や工程や流通経路の解読は、その社会の腑分けであり、時代の構造や症状が生々しく晒し出される。
 噂の「全国区」初当選の栄光を担ったのは高橋お伝を初めとする明治の「毒婦」たちだった。性意識の変換を強いられ、肉体に対するまなざしが変わった民衆の抑圧された欲望が、さして特異でもない哀れな女たちをジャンヌダルクにして火刑台に祭り上げ噂の炎で嬲り尽したのである。
 写真、映画、電話などのニュースメディアが登場した明治末から大正にかけて超能力者が輩出して霊術が流行ったり、ハーレー彗星による地球滅亡の噂が広がったりしたのは、パソコン通信や衛星放送など新しいメディア機器が出揃った今、再びオカルトや終末論がブームになっているという現象と不気味に符合する。
 他にもさまざまな噂が「歴史は繰返す」を実証している。兎投機や万年青への熱狂は後年の紅茶キノコに甦り、コレラ一揆まで引起こしたコレラへの恐怖や偏見はエイズが継承し、印象派絵画が巻き起こしたスキャンダルをヘアー・ヌードが蒸し返す。異人排斥も性懲りもなく繰り返され、「血税」という言葉が生血を絞る唐人の噂に繋るかと思えば、朝鮮人が井戸に毒を撒くというデマが震災時の虐殺事件をひき起こし、今もまた外人労働者が少女を襲うという噂がシャボン玉のように増殖して差別心を煽り立てる。
 大正天皇の病気報道を「日々飽食物の分量及び排泄物の如何を記述して毫も憚る所なし」と慨嘆した荷風の日記は、昭和天皇のときにもそのまま使えるし、「われは明治の児ならずや、去りし明治の児ならずや」という彼の哀切な詩は、平成の世相に対する昭和の児の苦い違和感に重なるのである。
 昭和の戦時下で判事が蒐集した「流言誹語」は民衆の逞しい本音として実に興味深い。いまどきの評論家やニュース・キャスターは安全地帯で言いたい放題だが、彼等のしたりげなコメントより、名もない庶民の流言の方がよほど勇敢で冷静で鋭く真実をついているのだ。
 言論の自由とマスコミの発達による情報の洪水の中で、われわれの想像力や洞察力がむしろ衰弱しつつあることを、本書による刺戟的なタイム・トリップで改めて思い知らされるのである。

桐島 洋子(随筆家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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